第二話 母の不在、父の影
「母上はいずこじゃ」
その言葉は、誰に向けられたものでもなかった。
朝の光が差し込む米沢城の廊下に、梵天丸──幼き日の伊達政宗の声が、ぽつりと落ちる。
長い髪を結わえ、今朝も丁寧に結び直された麻の小袖を身にまとっている。
だが、寝間から出てきたその姿には、どこか影があった。
「母上様は、また山形でございましょう」
背後から声をかけたのは、乳母・喜多である。
「最上様の御家騒動が続いておりましてな。義姫様には、やむを得ぬ御用にてございます」
「最上……叔父上の家じゃな」
「そうです。最上義守様と義光様の確執。まこと、骨肉の争いとは……」
「……母上は、そちらが大事なのかの」
「それは、違いますよ、梵天様」
ぴたりと横に立ったのは、あのくノ一見習いの少女──千代である。
「お館様も、奥方様も、お前様のことが一番大切に決まっております」
その声に、梵天丸はふっと視線を落とす。
「……わしは、母上の膝で眠るのが好きじゃった。柔らかくて、あたたかくて」
「ならば戻ってきたとき、いっぱい甘えるのです。そしたら、また抱いてくださいます」
「……うむ。そうする」
ぽつんと返されたその言葉には、まだ六歳の子の不安と、無理に強がる決意が滲んでいた。
千代はそれを見て、胸が苦しくなった。
(あの方は、ひとりにされることがいちばん……きらいなのに)
午後、城の奥庭。
伊達輝宗は、庭の隅で筆を走らせていた。
家中の者が彼を「静謐の君主」と呼ぶのも頷けるような、穏やかで、厳格な横顔だった。
梵天丸は、少し離れた石の陰から、その姿をじっと見ていた。
「……父上」
小さく、口にする。
威圧はない。声を荒げることも、怒ることも滅多にない父だ。
それでも、父の背はいつも遠い。自分より高く、広く、大きく、そして……孤独だった。
「父上は、さみしくないのか……母上もおらぬのに」
(……わしなら、きっと泣く)
心の中でそう呟く。
でも、父の背は揺るがない。筆は止まらず、姿勢は崩れない。
──そこに、千代の影が滑り込んだ。
「殿様、お疲れでございましょう。少し休みを──」
「いや、よい。……千代か。お主も、梵天丸のことを見ておってくれ」
「もちろんにございます」
「この子は、己の背で生きることになる。いつか、誰より孤独になる。だからこそ、見えぬものを見る“目”が必要だ」
「……黒脛巾が、務めさせていただきます」
「うむ。だが……それでも、影は、影に過ぎぬ」
輝宗の言葉に、千代は初めてわずかな悔しさを滲ませた。
だが、口には出さない。それが“忍”というものだから。
輝宗は視線を落とさず、ぽつりとつぶやいた。
「……あの子は、いずれ“母”を憎むことになるやもしれぬ」
千代の眉がわずかに動く。
「……それは、義姫様が“最上”の血だから、でございますか?」
「違う。そうではない。あの子が“強くなりすぎる”がゆえにだ」
その夜。
梵天丸はひとり、自室の縁側に座っていた。
星がにじむ空を見上げながら、小さな手で、自らの右目を押さえてみる。
「もし、この目が、見えなくなったら……」
言葉の続きを、彼自身も知らなかった。
そっと、誰かが寄り添う。
「千代……」
「はい」
「わし……強うなれるかの。父上のように、背をまっすぐにできるかの」
「できます。梵天様なら、必ず」
その言葉を信じたのかどうかは分からない。
ただ、梵天丸はその夜、母のぬくもりではなく、千代の言葉にすがるように、
眠りへと落ちていった。