第二十話 龍の誓い、虎の笑み
春の陽はすでに高く、山の雪もほとんど解けきっていた。
庵の裏に流れる沢は透明に澄み、その音が鳥のさえずりと混ざって耳に心地よい。
その朝、政宗は一人、最後の座禅を終えた。
目を閉じ、呼吸を整える。
風の流れ、陽の温度、土の匂い──
すべてが、ただ“そこに在る”という感覚を、彼は確かに掴んでいた。
「政宗」
後ろから声をかけたのは、虎哉宗乙。
相変わらず黒衣に身を包み、手には旅装の杖を持っていた。
「修行は、ここまでだ」
政宗は、目を開けて振り返る。
その顔には、かつてのような焦りも怒りもなかった。
「師よ。ひとつ、申し上げたいことがあります」
「ほう」
政宗はまっすぐに立ち、不動明王の像の前に進み出てから、静かに言った。
「──わしの目は、一つ。されど、千の心を映す目とします」
「……」
「父上の心、母上の心、千代の心、小十郎の心、民の心、敵の心……
そのすべてを、映すことができる目に」
彼の言葉は、まるで刀を鍛え上げる炎のように、
柔らかくも芯を持ち、誰よりも熱を帯びていた。
虎哉は目を細め、静かに頷いた。
「それが、お前の“剣”になる」
「はい。“斬る”ではなく、“映す剣”です」
「……」
虎哉は、わずかに口元をほころばせた。
「龍とは、吼えるものでも、ただ飛ぶものでもない。
人を活かし、心を照らす者の名だ。
そして、政宗──」
その瞬間、虎哉ははっきりと、言葉を紡いだ。
「お前は“龍”だ」
政宗は驚きに目を見張ったが、すぐに深く頭を垂れた。
「ありがとうございます。師よ……」
「だが、わしの役目はここまでだ。
これより先は、お前自身が“問う”ことを続けねばならぬ」
「はい。“問い”が尽きるその日まで、生きてみせます」
その日の午後。
庵の門で、千代と小十郎、そして政宗が見送る中、虎哉は旅装を整えていた。
「どこへ向かわれるのですか?」
小十郎が問うと、虎哉は笑った。
「風の向くまま。だが、また“心が迷う者”の傍に寄ることでしょう」
千代が、政宗を見上げる。
「……もう、教えていただけないのですね」
「教えることは終わった。だが“見守ること”は、終わらぬ」
そう言って、虎哉は最後に政宗を見て言った。
「いずれ、わしが斃れた後も、“龍”として生きよ。
名を恐れず、己を忘れず、心の剣を携えて──」
政宗は、拳を握ったまま、深く一礼した。
「師よ。いずれ、わしの名が“世に問われる日”が来ましたら……
その時こそ、またご教示ください」
「その日を、楽しみにしておるよ、独眼の龍」
虎哉宗乙が去ったあと、政宗は庵の前に一人残り、空を見上げた。
春の空は、高かった。
雲ひとつなく澄み渡り、その中に何かが昇っていくような気がした。
──目は一つ。
──されど、千の心を映す目とならん。
龍は、地に生まれ、空を知った。
これより先、その翼がどれだけの風と嵐を受けようとも、
この日の“誓い”が、彼の中で決して折れることはない。




