第201話『龍、繋がれたることを悟る』
夏の陽が、石垣の間に鋭く差し込んでいた。
小田原の城を包む湿気と熱気のなか、政宗は裃の裾を払って廊を進んでいた。
豊臣本陣──小田原評定が終わり、ひと月が経つ。
秀吉のもとへ正式に参陣を果たした政宗には、形式的な恩賞が与えられた。だがその「温情」は、まるで針の穴から差し込む陽のように、どこか冷たく、乾いていた。
――許されたのではない。
――見逃されたのだ。
それを政宗は、薄く笑みを浮かべながら感じ取っていた。
「お初にお目にかかります。三成殿。……この度は、秀吉公に御意を許され、恐悦至極」
伏見城下、豊臣家の政務を司る屋敷にて。
政宗は文官の筆頭格、石田三成の前で、礼をとった。
三成は、僅かに眉を動かしたのみで答えなかった。
沈黙の数拍の後、ようやく低く、音が落ちた。
「恐悦、とはよう申されますな。殿下が、貴殿をお許しになったことに、異議を唱える者は少なくありませぬ」
「……左様でございましょうな」
政宗は、まるで痛みを感じていないかのように、涼しい顔でうなずいた。
「東北の御家人が、年若くして十万の兵を手中に収め、今や諸侯を率いるとは……世は移り変わり申す。だが、殿下の治世は、安寧を第一といたします」
三成の目は、まるで氷を思わせる鋭さだった。
「今後、伊達殿が“動く”ことは、万民にとって災いでしかないと……私はそう思っております」
政宗は、その言葉をむしろ楽しげに噛みしめた。
小田原の陣では、誰もが口を噤み、笑顔の仮面を被っていた。
だが今、眼前の男は仮面を外し、敵意を隠そうともしない。
(ああ……分かりやすい。こうでなければ、面白くもなかろう)
「では、三成殿。いかように私が“動かずにいる”ことを証明すればよろしゅうございましょうや?」
「……ただ、沈黙なさればよい。言葉も、兵も、民も、動かさずに」
「沈黙、とは……死者の振る舞いにございますな」
政宗が笑った。
「生きている限り、我らは語り、走り、夢を描き申す。──殿下とて、それを禁じることはできまい」
三成は、冷たい目を政宗に突き刺したまま、何も言わなかった。
部屋を出た政宗を、廊の奥で待っていたのは、長束正家だった。
彼もまた、政宗を警戒するひとりである。
「石田殿とよい話を?」
「よい話と申しますれば、耳には痛ゅうございましょうな。……尤も、ああも真っ直ぐに嫌われておれば、返って気が楽になりまする」
政宗が目を細めると、長束は鼻を鳴らす。
「伊達殿。太閤様が“許された”ことを、お忘れなきように」
その“許す”という言葉が、政宗の心に鈍く響いた。
――許す、ということは、力の行使である。
――秀吉は、我を赦すことで、我を“臣下”と定めた。
その意味を、政宗は痛いほど理解していた。
伏見の空は広い。
だが、そこに羽ばたく龍は、己ひとりではなかった。
石田三成、長束正家、前田利家、細川忠興、上杉景勝、毛利輝元……皆が互いを睨み合い、疑い合いながら、太閤の意を汲み、虚勢と策謀に満ちた舞台で踊っている。
(檻、だな)
政宗は空を見上げた。
晴れ渡る空には、雲ひとつなかった。
それでも、己の背には枷があると感じていた。
その夜、政宗は書を広げながら、小十郎と語らった。
「……殿。今の我らは、太閤殿下の掌にて泳がされておるようなものにございます」
「わかっておる。だが、小十郎。龍が檻に入れられたとて、牙が鈍るわけではない」
政宗の声には、静かな炎があった。
「豊臣の世が続く限り、東北は“末端”でしかない。……だがな、小十郎。この檻の中で、我は翼を研ぐ。牙を研ぐ。……そして、いずれ来る空に向けて、飛ぶ」
小十郎は、政宗を見つめた。
「……殿の夢は、どこまでも大きゅうございますな」
「夢ではない。これは、我の“計略”だ」
政宗の指が、地図の端をなぞった。
東北から始まり、小田原へ。
そして、伏見、京、九州、大陸──
「この地図のすべてが……いずれ、龍の視界となる」
今は繋がれた身であれど、志までは縛られてはいない。
政宗の心は、既にこの国の彼方を見据えていた。




