第一話 梵天丸、枝を斬る
天正四年、陸奥・米沢城下。
雪の名残がわずかに残る春の庭に、少年の気合が響いた。
「えいっ!」
小さな体に似合わぬ太い声とともに、木刀が空を切る。
梵天丸──伊達家の嫡男であり、後の政宗は、藍色の小袖に身を包み、庭の柿の木に向かって真剣に打ち込んでいた。
「枝が仇敵と見たてか、坊や?」
笑い声とともに声をかけたのは、乳母の喜多である。
歳は四十を過ぎていたが、動きに無駄がなく、背筋も伸びている。
主君の子を育てる責を負う者の気品が、その立ち姿にあった。
「敵ではない!これは……天下を狙うための、道だ!」
梵天丸は真面目な顔で言った。目の中に、迷いはなかった。
「そも、わしは龍となる。大空を翔け、天下を取る!」
「ふふ、よう言いますな、龍様」
草むらの影から、もう一人の少女が顔を出した。
忍び装束の裾を短く折り、布で頭を包んだ少女──名を千代という。
まだ十にも満たぬ齢ながら、すでに黒脛巾組の末席に連なるくノ一候補。
その素早い身のこなしは、ただの遊び相手とは思えぬ研ぎ澄まされたものがあった。
「龍が木刀で枝を斬ってる姿……ちょっと笑えるけど、でも、かっこよい、かも」
「千代、馬鹿にしたな!」
「いいや、褒めたのじゃ。ほら、枝、また斬れたぞ」
ぱきん──
木刀の先が軽く枝を弾き、その切先で新芽が飛び散った。
春の陽が差し込み、木漏れ日が舞う中で、梵天丸は得意げに肩をいからせる。
「見たか、これが伊達の龍の力じゃ!」
「うむうむ、たしかに。──だが、龍殿。戦に勝つには、剣ばかりではなりませぬ」
喜多がにじり寄り、小刀を手に取った。
「剣も必要、けれど……火を扱い、毒を知り、書を読み、和歌を嗜む。それが戦国を生き抜く者」
「う……うむ、うるさいが正しい……!」
千代が吹き出した。
「うるさいって言った!」
「ち、違う!例えじゃ、例え!おとなの言い方じゃ!」
言い訳に必死になる梵天丸。だが、その頬は照れて赤い。
彼の気質は、この頃から既に誰より素直で、真っ直ぐだった。
──そのとき。
風が、木々を揺らした。
庭に立つ若木が、ざわりと音を立てる。
「……風じゃな」
梵天丸がふと空を見上げる。
その眼差しに、幼いながらも確かに宿っていたものがあった。
それは、ただの少年の目ではない。
千代も、喜多も、息を呑んだ。
「風が、吹く。……わしは、必ず、天下を掴む」
その言葉は、誰に言うでもなく、空へ向けて放たれた。
だが、その響きは真剣だった。
千代は、そっとその言葉を心に刻んだ。
「──わたしが、護る。あの人が、本当に龍になるなら……その影として、生きていこう」
誰にも聞こえない誓いを胸に、忍びの少女は静かに座した。
喜多は、梵天丸の背を見つめながら、ぽつりと呟く。
「御屋形様の血、ここにあり。……輝宗様も、さぞや」
その日の陽は柔らかく、空には雲ひとつなかった。
龍はまだ、空を知らない。
だがその目は、すでに遠くを見据えていた。
風が吹き抜けるたび、庭の枝が揺れる。
──一陣の風のように、歴史を変える男の第一歩。
それが、梵天丸という幼子の、たった一振りの木刀から始まったとは、
誰も、知らなかった。