第百九十七話『虎と龍、まだ眠る』
小田原の評定が終わり、天下は豊臣の下に一つに統されようとしていた。
だが――
その夜、ひとつの火が密かに灯された。
それは、表には決して出ぬ、虎と龍の密談である。
宵闇の中、月も星も雲に隠れ、音ひとつしない城の裏手。
その離れに、政宗は一人、通された。
灯はない。だが、そこに先客がいる気配はあった。
「遅かったな、伊達殿」
静かに、だが確かに通る声が響いた。
「徳川殿……お忍びとは、また大胆で」
闇の奥、静かに現れた男は、徳川家康。
豊臣政権の五大老の一角にして、未だ“表情なき狸”と畏れられる策士である。
政宗と家康。
この二人が、公の場で長く言葉を交わすことはなかった。
だが互いの中には、それぞれの“匂い”があった。
同類の匂い。
風を読み、先を見、時に黙し、時に噛みつく獣たち。
虎と龍。
まだ眠っているように見せて、互いの牙の長さを測っている。
「……小田原仕置、お見事でしたな」
政宗が口を開く。
「いや、見事なのは太閤殿下よ。我らはその舞台の上、駒にすぎぬ」
家康が答える。笑みは見せぬ。
「ですが駒とは、時に王をも討ちます」
「ほう、恐ろしきことを……お若いのに、そんな言葉を吐いてよいのか?」
政宗は微笑みを返す。
「若いからこそ、夢を語るのです。老いた者には、過去が重すぎる」
「……なるほど。確かに我ら老いた者は、夢の代わりに重荷を背負いすぎたかもしれぬな」
沈黙。
その隙間に、闇の中で燻る火の匂いだけが漂う。
「徳川殿。率直に問います」
「なんなりと」
「――いずれ、秀吉の世は崩れますか」
その問いに、家康は答えなかった。
だがそれは、肯定に等しかった。
政宗は続ける。
「太閤殿下は偉大です。しかし偉大すぎる。あの男が消えたとき、誰もその“代わり”にはなれない」
「……消えたとき、か。つまり、貴殿は既に“その後”を見ておる?」
「見るのは自由。実行するのは……命がけです」
家康は小さく笑った。
その目に、わずかに光が宿った。
「そのときは、俺が“喰う番”ですから」
政宗が、低く呟いた。
若き竜は、燃えるような眼で家康を見つめていた。
その目には、恐れも迷いもなかった。
「喰う、か……その言葉、忘れぬようにしよう」
「そちらも。“虎”と呼ばれる殿です。寝たふりをしているのは、もうごまかせませんよ」
「ふふ……では、“龍”殿。眠れるうちに夢を見ておくがよい」
ふたりの目が交わる。
そこには剣も槍もない。ただ、無言の契りと探り、野望と覚悟。
いずれ、豊臣の世が揺らぎ、火の粉が飛び散ったとき――
この日、この夜、この密談の種が、芽吹くことになるだろう。
その後、二人は何も言わずに離れた。
政宗が部屋を出たとき、空は晴れかけていた。
雲の切れ間から月がのぞく。
政宗は、その月を見上げて呟いた。
「獣が眠るのは、嵐の前だけか」
そして、懐の中にある“奥羽仕置”の書状をもう一度確かめる。
秀吉の朱印は、確かにあった。
――だが、政宗の“本心”は、そこには記されていない。
その“本心”に最も近づいたのは、いま会っていた男――徳川家康だけだ。
(いずれ、あの男とも戦う。だが今は……)
そう心に刻みながら、政宗は夜風を受けて歩き出す。
その背中に、まだ誰も気づかぬ“未来の戦”の影が、密かに伸びていた――
(つづく)




