第百九十話『小田原へ向かう影』
天正十八年、春。
空は高く晴れ渡り、しかし、どこか張り詰めたような冷気が残る朝。
その空の下、白雪まだ溶けきらぬ越後・出羽の境界を越え、伊達の旗が動いた。
吹き上げる風に、金地に黒の九曜紋がひるがえる。
伊達政宗、ついに小田原へ向けて出陣。
陣頭に立つ政宗の姿は、鋭利な刃のようだった。
背には「黒漆塗五枚胴具足」、肩には白布に染め抜かれた伊達家の旗印。
胸中に「夢を喰らった」傷を隠しつつ、彼の瞳は一分の曇りもなく前を見据えていた。
「出羽との境にて、最上義光殿の軍と合流の報あり」
副将・片倉小十郎が進み出てそう告げると、政宗はわずかに頷いた。
「叔父上も、決断をなされたか……」
最上義光──伊達の母・義姫の実兄にして、常に“表裏比興”の評を受ける狡猾な老将。
信長の没後、東国の安寧を模索してきた彼もまた、このたび小田原に向けて旗を挙げた。
かつては義姫を通じて伊達と最上は深く結ばれていた。
だが、今は盟か、対か、それすらも判じかねる時勢の渦中。
政宗は、小田原へ向かう途上、最上との合流に一抹の警戒を覚えていた。
それでも――今は、共に参陣する道を選んだ。
戦国の終末が、音を立てて迫っていた。
その頃、小田原城を囲む豊臣本陣では、すでに東北からの報せが届いていた。
「伊達政宗、出陣の由」
報を読み上げたのは、石田三成である。
その眉間には、わずかな皺が刻まれていた。
「ほう……あの若造、ようやく観念したか」
そう口にしたのは、加藤清正。隣の福島正則も苦笑いを浮かべている。
「参陣したとて、真に腹を決めたかは分からんぞ。あやつは、ただの若き独眼竜に非ず、化けるぞ」
言ったのは、黒田官兵衛だった。
その静かな声に、陣中が一瞬だけ静まる。
彼だけが、伊達政宗の“先”を見ていた。
この男は、屈しながらも立ち上がる。
喰われながらも、必ず吐き返す。
そして――
豊臣の未来にとって、最も手ごわき“未来の敵”となるかもしれぬ、と。
一方、その報を聞いた男が、もう一人いた。
徳川家康。
秀吉本陣からやや離れた天幕の中、家康は茶を啜りながら、報せの文を手にしていた。
「ついに来たか……」
呟きは低く、だがその声音には、明らかな興味が滲んでいた。
「“奥羽の竜”が、ようやく尻尾を見せたというわけじゃな」
傍らの本多正信が、目を細める。
「恐れながら、あの政宗という若者……家康様とは、また異なる意味で“待つ者”にございます」
「うむ、あやつは“時を待たぬ者”じゃ。だからこそ、わしの眼には眩しく映る」
家康は茶碗を置き、そっと手を広げる。
「石田殿や清正、正則の目には、政宗はただの“屈した若造”に映るであろうが……」
そこで言葉を切る。
「わしは、そうは思わぬ」
静かに笑った。
「一度“夢を呑んだ”男は強い。喰われた味を知り、次はどう喰らい返すかを考える」
「……殿下は、そこまで見ておられぬと?」
「いや、秀吉公は“あやつが来る”ことを最初から見越しておる。されど、その後までは──」
家康は夜明けの空を見上げる。
「政宗は、いずれ“豊臣の中の異物”となる」
「それは、敵とするということですか」
「否……いずれ、使える」
家康はそう言い、意味ありげに笑う。
「わしが老いたその時、あやつが世を騒がせてくれるじゃろうよ」
その夜、伊達軍は出羽街道に宿営を張っていた。
政宗は火を囲みながら、黙して地図を眺めている。
小十郎が静かに語る。
「殿、最上殿とは、明日未明にて合流の予定。やや遅れるとの使いが」
「……分かった」
地図の上で、政宗の指が小田原へと這う。
道は長い。だが、ここまで来た。
「竜の影が、世に放たれる」
政宗は呟く。
夢を喰らい、自らを喰い、なおも前へ。
その先に待つものは、栄光か、破滅か、それとも――
夜は静かに更けていく。
だが、風がひとつ、確かに動いた。
天下を覆う“影”が、北より歩み始めたのである。
(つづく)




