第百八十二話『血の兄弟、夜明けに散る』
夜が明け始めていた。
米沢の空は、冬の名残を色濃く映しながらも、確かにその向こうに新たな光を孕んでいた。だが、政宗の前に広がる雪景色は、白の上に紅を抱いたまま、動かずにいた。
小次郎の体は、政宗の膝の中で静かに横たわっていた。
雪に濡れ、血に染まり、冷えたはずの弟の頬は、どこか穏やかで──それが、かえって胸を締めつける。
「兄上、ありがとう」
それが最後の言葉だった。
涙ではなく、微笑みだった。
政宗の胸に、小次郎は笑って倒れたのだ。斬られることを受け入れ、剣を握ったことに意味を与え、そしてなお──兄として、政宗にその手を託した。
雪が、そっと降り積もる。
白い花弁のような結晶が、小次郎のまつげに、政宗の肩に、音もなく重なる。
政宗は、ただ無言でその体を抱いていた。
生まれたときから一緒だった。共に遊び、共に眠り、母の膝で共に泣いた。
あの日、手を取って山を駆けた幼き弟が、もういない。
その心を奪ったのは、母だったのか。政宗の背中だったのか。あるいは、戦国という時代そのものだったのか。
「……小次郎」
呼ぶ声は、風に紛れて消えていった。
やがて、千代と黒脛巾組の者たちが駆け寄る。
「殿、ここは……」
千代が言葉を選びながら問うた。だが政宗は答えなかった。小次郎の手を、まだ離せずにいた。
「……葬ってやってくれ。丁重にな。……伊達の嫡子の弟として」
低く、それでも一語一語を刻むように政宗は言い残し、その場を離れた。
雪の中を歩くその背は、誰にも追いつけないほど遠かった。
そのころ。
義姫は屋敷にいた。深く紅を引いた唇は、蒼白に震えていた。
城の方角から吹く風が、何かを告げるように肌を刺す。
それでも義姫は、声を出さなかった。
ただ、その膝の上に置かれた懐紙を見つめていた。
そこには、小次郎の文字でこう綴られていた。
──「母上、俺は兄上に斬られる。兄上を貶めぬため、俺は刃を取る。でも……兄上を恨まぬでくれ」
紙の端には、幼き日、小次郎が初めて覚えた文字で書いた「ままへ」の筆跡が残っていた。
義姫の肩が、震えた。
涙が、頬を伝う。
「……小次郎……」
そう呟いた時、ふと松が部屋に入ってきた。
「お母上……ご気分が優れませんか?」
義姫はその幼い少女の顔を見て、微笑もうとした。
だが、頬の涙を拭うことはできなかった。
松は、静かに傍に寄る。
「兄上は、無事でございますよね?」
「ええ……政宗は、無事よ」
そう答えながら、義姫は松の手を取り、その手の温かさに、崩れるように膝をついた。
「ねえ……松……母として……これは、正しかったのかしら……?」
誰にともなく、義姫は問う。
松は答えられなかった。
ただ、抱きしめられたその手に、小さな手でぎゅっと力を込めただけだった。
その日の夜。
政宗は、ひとりで書院にこもっていた。
灯りも焚かず、墨の香りもないその空間に、ただ政宗の気配だけが沈殿していた。
大内定綱が静かに入ると、政宗は筆を手にしていた。
「定綱。……我が家は、弟を斬らねば守れぬ家か」
その問いに、定綱はすぐには答えなかった。
だが、やがて、静かに言った。
「殿は、“守る”とは、“斬らぬこと”だとお思いかもしれませぬ。しかし……時に、それは“斬らねばならぬ者を選ぶ”ことでもありましょう」
政宗の筆が止まる。
「弟君は、殿の剣で斬られることを選ばれた。それを御心に刻み、未来を開くことが、供養にございます」
「……開く、か」
政宗は遠くを見るような目をした。
弟を殺した政宗は、もう戻らぬ。
だが、政宗を殺して生き延びた伊達も、また戻らぬ。
血は、兄弟を分かち、未来を照らす灯火となった。
そして夜明けが来る。
血と涙の上に立つ、冷たくも鮮烈な朝が。
(続く)




