第百七十三話『毒と詩、鏡に映す者』
月が鏡のように冴えていた。
黒川城下の裏通り。侍も町人も寝静まる頃、灯の消えた花街の裏手を、影が二つ、風のように駆け抜けていく。
一人は千代。もう一人は小夜。伊達家の密命を受け、政宗の“名”を貶めんとする佐竹家の密偵を追っていた。
「……見失っていません」
耳元でささやかれた小夜の声は、霧のように淡く、それでいて確かだった。
「南の“花隠ノ間”へ入りました。足跡と匂い──薄荷と花酢の香りが混ざっています」
千代は無言で頷く。香りの感知は小夜の得意分野。隠密の世界においては、音よりも、姿よりも、香りがもっとも裏切らぬ。
二人が目指す“花隠ノ間”は、かつて蘆名家の密通に使われたと言われる屋敷跡だ。表向きは閉鎖された妓楼の一つだが、地下には複雑な回廊と密談のための鏡張りの間が残されているという。
“情報の墓場”とも噂される場所。死者の名だけが壁に刻まれる、女たちの戦場だった。
扉を押して中へ。音はしない。灯もない。
ただ、鏡だけが、部屋の四方に設置されている。
「……気をつけてください、姉さま。これは、視線を乱す罠です」
小夜がそっと囁く。
そのときだった。
鏡の一つに、見覚えのない女の影が映った。
「おや、噂に聞く“伊達の女狐”とは、あなたのことかしら?」
座敷の奥、紅の帳が揺れた。現れたのは、黒装束に朱の帯を締めた女──肌は白く、唇は血のように赤い。
その声は甘く、まるで詩を詠むようだった。
「“花隠ノ間”へ来た者が帰れたこと、ないのだけれど。さて、例外になれるかしら?」
千代は構えた。小太刀を抜く音すら抑え、静かに一歩踏み込む。
「そういうあんたは、名も持たぬ鴉だろうに」
「ふふ、名乗るなど……この世界では“死に支度”のようなものよ?」
女は腰をかがめ、袖の奥から細い管を取り出した。
──毒吹き矢。しかも即死級の薬種の匂い。
「名前も、言葉も、姿さえも。すべてを隠して生きる。それが“わたしたち”でしょう?」
「……違うわ」
小夜が囁く。だがその声には、風に溶けぬ芯の強さがあった。
「私たちは“隠れるため”に生きているんじゃない。“想い”を守るために、影に徹してるんです」
「へえ……じゃあ、その“想い”とやらで、この矢を避けてみなさい?」
風が鳴った。
矢が放たれた瞬間、小夜が身をひるがえし、無音の動作で横に跳ねた。
その間を縫って、千代が間合いを詰める。
「名を捨てた者には、名を守る者の強さは分からない!」
斬ッ──鏡の中で、交錯する二つの影。
だが、鏡は真実を映さない。千代は一歩引き、女の呼吸のズレを読んで、逆に背後を突いた。
「──ぐっ……!」
女が短く呻いた瞬間、鏡の一つが割れ、床に血が散った。
しかし、女は微笑みを絶やさなかった。
「名を語れば、誰かの標的になる。だから私は、“誰でもない”のよ」
「……あんたは誰のためにも生きてない。私たちは違う。政宗様の名は、私たちの盾であり、旗よ」
女は笑った。血を流しながらも、まるで憐れむように。
「名は、いずれ裏切る。信じすぎると、痛い目を見るわよ……“女狐”さん?」
「それでも──信じたい“誰かの名”があるのよ」
千代の短刀が最後の一閃を描く。女の肩口に打ち込み、毒の吹き矢を地へ落とさせた。
「終わりね」
「……ええ、終わり。でも、また来るわ。名を狩る者は、名がある限り現れる」
女は静かに倒れ、そして最期の言葉を、詩のように呟いた。
「風の名は、誰にも残らない。けれど、風は、誰よりも多くの声を聞いている──」
──数刻後。
千代と小夜は“花隠ノ間”を後にしながら、鏡に残された“刺客の影”を振り返る。
「ねえ、小夜」
「はい、姉さま」
「私たちが“名前”で語られる日は来ないかもしれない。でも……」
「でも、それでいいんです。私たちの“名”は、政宗様が抱えてくださるから」
風が吹いた。
その夜、会津の鏡には、もう誰の影も映らなかった。
けれど、確かに誰かがそこにいて、誰かの“名”を守るために戦った証だけが、静かに残っていた。




