9. 街歩き
ミラは商店街を歩いていた。
長期の休暇と言うのは何をすればいいものなのだろう。
学園は一か月間の夏季休業に入っている。第二学期の準備をするにもまだ早い。
ミラはぶらりと街の商店街に立ち寄っていた。
「ミラじゃねえか!」
大通り、大声で呼びかけられて少し注目が集まる。
誰かと思って声のする方を見ると、見覚えのある男が手を振りながらこっちへ走って来た。
「聞いたぞ、メイド辞めたんだって!?」
「あ、うん……」
ミラは少しこの男が苦手だった。反射的に一歩後ろに下がる。
リック・なんとか。名字は忘れた。
白いコックの服に手にはコック帽を脱いで握ってるから、茶色い癖毛が更に散らかって見える。この癖毛とそばかす顔は昔から少しも変わっていない。
ミラと同じ年で、王城メイドとして暮らしていた時から、何かと顔を合わせることが多かった。
リックは王城のキッチンで働く通いのパン職人の息子だ。十三歳くらい、仕事を覚えるようになった頃から父親と共に出入りするようになった。
「——なんでここに子供がいるんだ?」
同い年なのに、初対面でそうやって怪訝な顔をされた。ミラは小柄だから見下ろされて、鼻白むように言われて。第一印象がそれだったから、ミラの中では苦手な人だ。
以来、顔を合わせると何かと話しかけてきた。
「お前、親がいないんだって?」
「俺も母親がいねえけど、めちゃくちゃ働いてるぞ?悲しんでる暇なんてねえからな」
「お前お城の人たちのお世話になってんのか?いいよなあ、恵まれてて。俺なんていっつも親父にどやされてんのに。——ああ、いっそ俺も孤児になったらなあ。楽できたかな」
リックの台詞は、いつもミラに突き刺さった。
リックには同年代の子供と比べて、自分が一人前に働いているという自負があったのだろう。実際、早朝から夜遅くまで、体力を使う仕事をしっかりとこなしている。それは尊敬する。
でも。
——本当に?
ミラはいつも言葉を飲みこんでいた。
——本当に、お父さんがいない方がいいって思うの?
ミラは違う。どれほど貧しくても、苦しくても、どんな形でもいい。
お母さんには生きていてほしかった。そのためだったら何でもできたと思う。
今はただその思い出にしがみついて城に居残っているだけ。
一人で立派に働いているリックに、何を反論できるはずもなかった。
「——で、今何やってんだ?」
リックがいつもの調子で尋ねる。
「どっかの家のメイドか?——やっとだな。俺、ずっと辞めた方がいいって思ってたんだよ。身寄りのないお前が、いつまでも温情に胡坐かいてちゃいけねえもんな」
リックはどんどん話を進めた。
「それで。やっていけてんのか?いま王都に住んでんのか?」
「うん」
「家賃払えてんのか?この辺は高えだろ」
上から下までリックが見てくる。
新しい服を着ていればよかったかな。こんなぼろじゃなくて。
これだって、自分のお給料で三年前に買ったワンピースだ。でも、一部繕ったりはしている。
この姿を見て、リックは何を思ったのか、ふっと笑った。ほら見ろ、とでも言いそうな笑い方だ。
「厳しいだろう。一人で生きるってのは。——なあ、俺のパン屋の手伝いするんなら、安くで家も貸してやれるぜ?まあ、王城の時みてえに甘えた事は言わせねえけどな!」
甘えた事ってなんだろう。
王城の時も、ほとんどリックが喋って、言葉を交わしたことはなかったと思うけど。
「パン屋の朝は早いんだ。朝一番に焼きたてのパンを並べないといけないからな。うちは常連さんが多いから、いつもと同じ味に仕上げなきゃいけなくて——」
「いや、パン屋の仕事は、ちょっと……」
興味もないし、経験もないし。
「家賃はちゃんとお給料から払える金額だから大丈夫」
「はあ?そんな安いわけねえだろ?——ははあ」
リックは何かを思いついたように唇の端を上げた。
「お前、まーだ人の好意に寄生してんのか。だめだぞ?もう成人したんだから、もっと自立しねえと」
「わかってる、よ」
「本当にわかってんのか?——ミラ、お前みたいな孤児は、本当は王城なんて近寄ることもできないんだからな。身の程をしっかり弁えて、こつこつ、地道にやらないといけないんだからな」
もういいかな。
別に顔見知りなだけで友達でも何でもないんだし、今は同僚でもない。
リックと父親は王城の経験を活かし、王都でパン屋を開業している。ここで別れたらもう会うこともないはずだ。
ミラはどっちに行こうかなと視線を少し遠くにやった。
リックがポツリと呟いた。
「……なんなら、もらってやってもいいんだぜ?」
「——え?」
本当に聞こえなかったから聞き返したが、リックは急に早口になった。
「お前、学もそんなにないしさ。掃除洗濯ならできるんだろ?それなら俺の店でもできることがあるかもしれねえからな」
「えっと、パン屋で働かないかって話……?それなら、ごめんね、私今、学園の先生してるの。仕事してるから」
「先生ぃ?お前が?」
「メイドを育ててるの」
ミラは少しだけ元気を取り戻した。ミラの中で胸を張れることが、一つだけあるとすれば、この仕事だった。
まだまだ小さな一歩だけど。
「メイドを、育てるう?」
リックは大笑いした。
「お前、嘘だろ?メイドなんて誰でもできる仕事、わざわざ学校で教えるのか?しかも、お前が?」
お腹を抱えて、ポン、とミラの肩に手を乗せた。
「まさか、それ、コネを使ってもらったんじゃ——う、わぁぁあ!」
リックの突然の叫び声にミラはびっくりして数歩下がった。
大柄な男が叫ぶと、さすがにちょっと、怖い。
見上げるとリックの癖毛が大人しく……いや、てかてかと光っている。
頭から被った黒い液体が、ぽた、ぽた、と顔を伝う。油のひどい匂いだった。
「——っああ、ごめんよ!」
「な、な、な……」
少し離れたところの店主が慌てて駆け寄ってきた。
「使い終わった廃油を捨てようと思ったら、手が滑って……ああ、ひどいね。早く風呂に入ったほうがいいよ」
料理屋の店主はその程度の謝罪でまた店へ引っ込んでいってしまった。
料理屋の黒ずんだ油を大量に頭からかぶって、リックは言葉もないようだ。
「——だ、だいじょうぶ?けがは……」
「っくしょう、なんだ、なんだよこれ!」
叫ぶと油が飛んできそうで、ミラは更に数歩下がった。
「ミラ、お前か!?」
「ええっ、なんで私?」
「お前、変な魔法使うじゃねえか。あんな離れたところの油が、ここまで飛んでくるか?普通」
「何もしてないよ」
「——ああ、くそっ!もう帰る!」
リックはそう言って大股で大通りを去って行った。
廃油の処理は
・吸わせる派
・固める派
・石鹸作る派
他にありますか?
私は吸わせる派です。