6. カルニコスとミラ
カルニコスがミラと言葉を交わすようになったのは、ミラが十になった頃。
母を亡くした後、下働きの真似事をして、そのうち城内の色々なところにお遣いに出されることが増えていた。
一応、ミラの事は知っていた。
メイドが産んだ、父親の分からない子供。
そのメイドも死んで、今は城で面倒を見ている。
知っていたのはそれだけだった。
十になりあちこちに顔を出すミラを見かけるようになって。その仕事に打ち込む姿に、カルニコスは危うさのようなものを感じた。
宰相の執務室のある三階から、右へ左へと走り去るミラの姿を見掛ける。それが妙に目についた。
十というのは、友人と楽しく遊びまわる年ではないのか。
遊んでいる所どころか、寄り道の一つもしない。ひたすら仕事に打ち込む姿は、少しも子供らしくないじゃないか。
いっそ孤児院へ送り出し、子供の中で遊ばせながら成長させるべきだと思う。
——だから、声をかけようと気まぐれを起こしたのだろう。
「——君」
宰相部前の廊下で見かけて、ミラは弾かれたようにくるりと振り返った。
カルニコスの顔を見て、しまった、と顔に出している。一体何を聞かされているのやら。
大方、宰相の視界に入るなとでも言われているのだろう。
「私の執務室のインク壺が空になった。補充してくれるか」
「あ……、はい!」
ミラを誘い、執務室へ入る。
インク壺を探してキョロキョロとするミラを観察しながら、カルニコスは執務机に着いた。
ミラは子供らしい表情で興味深そうに部屋を眺めていた。
書籍がほとんどだが、世界地図、通信器具と、確かに珍しい物も多い。
「インク壺はこれだ」
「あ、はい!失礼します」
ミラはそう言ってポケットから手拭いを出し、インク壺を受け取った。
「ペンも、拭いてきますね」
「手慣れているな」
「インクの補充は覚えましたので!」
ミラはそう言って嬉しそうに笑う。
「仕事は楽しいか?」
お遣いを喜んでやるのであれば、それはそれで遊び感覚でやってもいいのだが。
「はい。できることが増えるのは、嬉しいです」
「そうか」
「早く役に立つ人間になりたいです」
ミラは何の迷いもなくそう言った。
インク壺を持ちながら、器用にペンをきゅっ、きゅっ、と磨いている。
「お情けじゃなくて、置いていただけるようになりたいです」
「お情け?誰かが君にそう言ったのか」
詰問調にならないよう気を配ったつもりだった。だがミラは動揺したようだった。
はっと手を止めて顔を上げた。
「誰か……ええと、おかあさ——母が。ご恩返しを、しなさいって」
カルニコスは難しい顔になった。眉間にしわが寄っているのが自分でもわかる。
「子供はそんな事考えなくてもいいとは、言われなかったか?」
ミラは不思議そうな顔をしていた。
当たり前の事と反対の事を言われ、でも偉い人の言う事だから、何と返事をしたらいいのか。——顔にそう書いてある。
「あっ、あの……私が、無理矢理、お願いしたんです」
ミラは追い出されるのでは、と思ったのだろう。青ざめてインク壺とペンを握りしめた。
「母といたここを、離れたくないです。お願いいたします」
ミラが深く頭を下げる。
カルニコスは溜め息が出そうになるのを何とか堪えた。
情けない話じゃないか。
大人があれほど集まって、誰一人としてこの小さな子供に、働かなくていいと言ってやれなかったとは。
ただそこにいて良いのだと言ってやれなかったのか。
「ミラ」
カルニコスはミラの前まで近づいて、声を掛けた。
「顔を上げなさい。出て行けなど、言わないから」
ミラはほっとしたように肩の力を抜いた。
「だが、働く必要はない」
「そんな訳には……!」
「君はまだ十だ。働くよりもまず、やることがある」
「何をすればいいですか」
遊べ、と言いたかったが。思い詰めた表情のミラに遊べと言っても分からないだろうと思った。
「——学問を身につける必要がある」
「学問がないと、働いてはいけませんか」
「学がなくとも、働くことはできる。生きて行くこともできる。だが、それだけになってしまうだろう?」
ミラは益々不思議そうに首を傾げた。
「それだけ……?」
働けて、生きていける。それ以上の何が必要なのだろうか。
「君は恩返しをせねばならぬと言っているが。そんな事、誰も強いていない」
「でも……私なんかが、ここにいるためには……」
ミラがまたぎゅっとインク壺を握る。
カルニコスはその肩を軽く叩いた。
「まずは、自分なんか、と言うのをやめなさい」
少し考えて、カルニコスは続けた。
「城門を出てすぐのところに初等学校がある。そこに通いなさい。城から通えばいい」
「でも、そしたら仕事が」
「君がいなくても城は回る」
ミラの持っていたペンをすっと受け取ると、残り少ないインク壺のインクをペンに吸わせ、カルニコスは書類にすらすらと何かを書いた。
「話は通しておく。午前中は学校へ行きなさい」
午前中は一番忙しい時なのに……。
ミラは言葉を飲みこんだ。
自分がいなくてもみんなが問題なくお城を回しているのは知っている。どうにか居場所を作りたいと思って働かねばと思っていたのはミラだけだ。
カルニコスの雰囲気に反論することはできない。
「午後は好きにしたらいい。読み書き計算ができないと、仕事も限られてしまうだろう」
ぺらりと書類を見せられたが、確かに何を書いているのかわからない。
執事長やメイド長は普通に読めているし書けていたけれど。
ミラは頷いた。
カルニコスは満足そうに笑った。
厳しそうな雰囲気が急に和らぐ。
「私と一つ約束をしないか」
「約束……?」
「君が学問を身に付け、望む仕事ができるよう私は助力しよう。代わりに君は、自分が何に秀でているのか、私に示しなさい」
「え……」
「得意分野を見つけろという事だ。それでこそこの城での役割が決められるというものだからな」
カルニコスは書類をミラの手に握らせた。
右手にインク壺、左手に紙。
「この書類を侍従長に渡しなさい。——今すぐでなくていい。私を納得させられるほどの事を、期待している」
「…………………」
ミラは呆けた顔でカルニコスを見つめた。
カルニコスはポン、とミラの頭を撫でる。
——父親がいたらこんな感じなのだろうか。
ミラは急に切ないようなたまらない気持ちになって、とってつけたようなお辞儀だけして退室した。
カルニコスの言う事はよく理解できなかったけれど。
この日からミラは学校に通った。
そして今日に至るまで、まだカルニコスとの約束を果たせていない。
生活魔法を編み出したと言っても、それが宰相閣下のお眼鏡にかなう程とは思えないし。教師をしていると言っても、所詮と言われるメイド科だし。
そんなミラの思いをカルニコスはわかっているようだった。
自分で気づかなければ意味がないというかのように、カルニコスは何も教えてくれなかった。
カルニコスは急かすでもなくただ、約束を覚えているかと聞いただけで、王立学園から帰っていった。