5. 宰相閣下ギュンター・カルニコス
その日は朝から、何やら学園がぴりついていた。
朝、学園に出勤すると、ミラはまず準備室に行く前に教師控室へ入る。出勤を登録して、連絡事項等を確認したりしつつ教師らに挨拶をする。
ふと、教師陣の顔が険しくて、慌ただしく何やら準備しているのに気づく。
「今日は何かあるんですか」
何の気なしに聞いたミラだったが、ジルビルが声を潜めて教えてくれた。
「今日は官吏科で、特別講演があるらしいですよ」
既視感がある。前にもこんなことがあったような。
「はあ。特別講演」
「なんでも、あの宰相閣下が来られるとか」
「へえ……さすが王立学園ですね」
あのお忙しい宰相閣下ご本人をお招きするなんて。
「いえいえ!今までそんなことなかったですよ。宰相府の方をお招きするだけでも大ごとなんですから」
確かに官吏科の先生らが中心にあちこち走り回っているようだった。騎士科も警備にあたるためか、バタバタとしている。
「宰相閣下は、気難しいって有名でしょう?不手際がないようにって、昨日から学園総出で準備に追われているんですよ」
「——なるほど」
昨日は休日だったから知らなかった。
しかし、特別講演か。
メイド科も一度やってみたい。ベテランのメイド長とかに声をかければ語ってくれるだろうか。
メイドの心得とか。エメラルド宮のメイド長なんかだと、気さくな人だしいいかもしれない。生徒にメイドの仕事のやりがいなんかも話してもらえれば。ミラが語るよりよっぽど説得力がある。
宰相閣下と言えば、ギュンター・カルニコス。
いつも顔が険しいのは慢性的な肩凝りや疲労による頭痛のせいである。確かにもともと鋭い目つきをしているから、眉間にしわを寄せただけでかなり恐ろしい顔にはなるのだが。
初対面ではミラもちょっと怖かった。
でも、いい人だ。ミラの立場からいい人、と言うのはおこがましいけれど。
立派な人で、いい人。それ以外の表現が思いつかない。
当時を思い出してつい頬が緩んでいたようだ。ジルビルが変な顔をしている。
「ミラさん……自分は関係ないからって、笑っちゃだめですよ」
「はは……そうですね。失礼しました」
でもまあ、関係ないので。ミラは授業準備に取り掛かった。
関係ないと思っていたミラだったが、今、講演会場の受付に立っている。
学園長に頼まれたからだった。
受付をしていた法学の先生が腹痛でトイレから出てこないらしい。
緊張のしすぎだとか。
そこまでのプレッシャーを感じていたとは、可哀想な話だ。
ミラは途中からバトンタッチした。
公演はもう始まっているようだから、受付としての役割はほとんどない。遅れてくる人の対応くらいだ。メイド科の授業も終わっていたので、お手伝いくらいはいくらでも協力する。
騎士科が警備を分担しているのだから、メイド科としてもお茶出し等手伝いを申し出ればよかっただろうか。しかし、生徒たちはまだその演習を終えていない。
来年は事前にスケジュールを聞いて、それに合わせて授業予定を組むのもいいかもしれない。
そんな想像を巡らせていると、あっという間に講演は終わったようだった。
防音がしっかりしているから会場内の音は聞こえてこなかったが、拍手喝采は漏れ聞こえてくる。
盛況だったようだ。
重い扉が開かれて、更に拍手の音が大きく響いていた。
ばらばらと人が部屋を出て行く。
「いやあ、すごいね。宰相閣下のお話はスケールが違う」
「でも、前半の職能効率化の話は、すぐにでも実践できそうだった」
「いやいや、中盤の医療改革と経済を絡めたご講義の方が——」
「僕、後半は理解できなかったよ」
「私も……」
熱気も伝わってくるから、よほど白熱したのだろうと思う。
人の群れが流れて出て行っても、前の方にはもう一塊あるから、おそらくカルニコスを取り囲んで議論に花を咲かせているのだろう。
ミラは雑用係の人たちが椅子を片付け始めたのを見て、自分も手伝いに参加した。
ガタガタと椅子を片付けていると、カルニコスを取り囲む教師陣の集団はその脇を通り抜けていった。学園長も接待に出てきていた。
ミラはぺこりとお辞儀する。
カルニコスの一行はそのまま一度ドアのあたりまで進んだが、そこで止まった。
「ミラ・バレリー」
「は、はい!」
カルニコスの声は大きいわけではないのに、よく通る。
黒い髪が少し波打って後ろでまとめられている。銀色の眼鏡がきらりと光り、その奥に冷たい印象の灰色の目がミラを見つめていた。
会場はしん、と妙に静まり返った。カタ、と誰かが椅子の音を立てて、慌てて息を呑んでいるのまで伝わってくる。
「いつもの、頼めるか」
「あ、承知いたしました。ですが、材料が……」
「持参した」
いつもの、というのは頭痛によく効くハーブのブレンドである。ハーブティーとハーブオイル。城を出る時に、レシピは渡しているはずだ。だから材料もわかっているのだろうが……。また、ノアの時のように何か不手際があったのだろうか。
「ミラ嬢、そこはいいから、応接室の方に閣下をご案内してくれるかな」
「はい」
学園長の頼みに、ミラは椅子を置いた。
王立学園と言うだけあって、応接室も王城に引けを取らない豪華さである。
ミラはこの部屋に入るのは二度目だ。一度目は初めて王立学園に呼ばれた時。
毛足の長い赤い絨毯に、煌びやかな模様のある壁。ソファもふかふかのくろい毛皮で、とにかく高級感がすごい。
カルニコスがお客様の場所に座り、学園長とミラがその対面に座る。
カルニコスの側仕えの人が、ミラの目の前に包みを置いた。ふわりとハーブの香りがする。包みを開くと小さな乳鉢と小袋に入ったハーブが出て来る。
準備万端だ。
カルニコスは眉間を押さえていた。
「では、早速」
ミラはハーブを乳鉢に入れてゴリゴリとちょうどいい具合になるまですりつぶしていく。
ハーブの香りがふわりと部屋に漂う。
「ほう、この香りは華やかでいいですね」
「あ、これはラベンダーです。安眠効果もあって、頭痛によく効きます」
学園長が興味津々だ。
「おや、こっちは少し……スパイシーな」
「フィーバーフューですね。頭痛をやわらげてくれます」
「あ、これは馴染みがあります。私は苦手で、出されてもよけて食べるんですが」
「ミントですね。食堂のアイスにも載ってますよね。ストレスの胃もたれなんかに最適なんですが……」
学園長は時々胃のあたりをさすっている。特に聞いたことはないからそうとは限らないが、反応を見る限り、どうやら当たったようだ。ミントに手を伸ばし一つまみ口に入れている。——乾燥してあるものだからあまりいい味ではないだろうが。変な口になって、お茶を飲んでいた。
止めればよかった。
王立学園の客間で急遽行われるハーブ教室……。異様な空気だが、誰も突っ込まなかった。
それぞれ適量ずつを混ぜ、程よいところまですりつぶして、用意されていた袋に入れる。
「できました」
次にレモンバームとラベンダーを混ぜて、ハーブオイルも作っておく。
「ミントティーはお休み前に飲んでますか?」
「ああ。ストックがなくなって注文したんだが、君が調合するものとは少し違っていて」
ハーブの調合は薬と一緒で、どれほど計量しても調合する人によって少しずつ風味が変わると言う。持っている魔力の質によるものだとか言われているけれど。それでもそれを感じるのはよほど繊細な人間だけだ。
カルニコスは神経質だとか言われているから、やはり慣れた味がいいのだろうか。
「——あ、このオイル、塗って香りを楽しんではって言ってましたけど、いいことを思いついたんです。温かい蒸しタオルに垂らして目の上に載せたら、気持ちいいと思うんですが」
「それはいい考えだ」
「はい。カルニコス様は書類を読まれることが多いので、きっと目も疲れてらっしゃいますよね。私、メイドの時はちっともなかったんですけど、最近よく本を読んだり机で作業するようになって、時々肩が重いんです。なので色々試してみたんですが、すごく良かったです」
カルニコスは少しミラを見つめて、何か考えているようだった。ミラが作業を終えるのをじっと待っている。
オイルを作り終わったら、ガラスの小瓶にタラタラとゆっくり流し入れる。
手についたオイルは、もったいないので手に塗り込んだ。
「——どうだね、学校の先生は」
良い匂いなので顔にもつけようかとしたところで尋ねられ、手を膝の上に戻す。
お行儀が悪かったかもしれない。
「そうですね。難しいですけれど……楽しいです。生徒達もとっても可愛くて素直で」
「無理はしていなさそうだが」
ちら、とカルニコスが学園長を見て、学園長が背筋を伸ばした。
「困っていることはないか」
「はい。私、初めての事ばかりで……」
王城の寮以外のところで暮らすのも。自分の掃除洗濯料理を自分でするのも。
こうして何かを教えるという事も。
そう言うミラの顔は輝いていた。
「いい経験ができているなら、何よりだ」
「あ、心配して、声をかけてくださったんですか」
ミラはここで初めて気づいた。
ハーブの調合なんて、別に大した仕事ではない。こうしてわざわざ用事を作って様子を聞いてくれたのだろうか。
特別講演で忙しいだろうに、末端のメイドのその後まで気にかけてくれるなんて。
「声をかけるどころか……いえ、なんでも」
学園長が何かを言いたそうに口を挟み、また噤んだ。
「カルニコス様は、本当にお優しいですね。ありがとうございます」
素直に感謝を伝えたつもりだったが、カルニコスはほんの微かに笑うだけだった。
「私の事をそう言うのは君くらいだ」
普通にしていても怖いだの怒っているのかと言われ、ひどい時は何も言っていないのに謝られることもある。自分の顔面が厳ついのは自覚しているが、今更どうしようもない。
カルニコスは今日、ミラが少しでも不自由をしていないか、つらい思いはしていないか様子を見に来た。それは、ミラが無理をする性質だと知っているから、困っていたら陰ながら手を差し伸べるつもりだった。
困ってはいないようだが、全力で突き進むのは変わっていない。
学園長によれば、十五人の生徒を一手に引き受けているという。準備から何から一人で。学園内の冷ややかな視線もものともせず。——そのうち倒れるのではないかと危惧してしまう。
手を差し伸べたいが、ミラは固辞するだろう。
ミラは自分に寄せられる好意も心配も、全て相手の優しさによるものだと思っている。だから頼れない。
自分が大切にされる存在だとは思えないらしい。カルニコスはそれが一番の気がかりだった。
外に出ればもう少し自信をつけられるかと思ったが。
「どうやら、君はまだまだのようだ」
「え……あ、はい。まだまだ、精進します」
カルニコスは調合されたハーブを大切そうにしまいながら頷いた。
「私との約束を覚えているかな」
「——はい……」
「なら、いい」
ミラが幸せになるまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。
カルニコスはそう思いながら立ち上がった。




