3. 近衛騎士団長ノア・ラぺス
その日、ミラが教師の棟から歩いてメイド科の教室に向かっていると、騎士科の方に人だかりができていた。
メイド科棟へは広場をぐるりと囲む外廊下を通っていくから、騎士科へ続く廊下も見える。そこにいつも以上に人がいた。
騎士科は人が多い人気学科ではあるものの、それでも混み合うという事はないのだが。
「今日は模擬試合が行われるらしいですよ」
「へえ……」
行き先が途中まで同じ魔術科の先生が教えてくれた。
生活魔法について興味を持ってくれ、よく話をするようになったジルビルという男性だ。
いつも顔色が悪く、口を開けば研究の話しかしないくらい、研究が好きな人。ミラの生活魔法を見せてほしいと良く頼んでくる。
この前の湿度を増すという生活魔法について、生徒にどう教えたらいいのかミラが試行錯誤をしていた時も。水を微粒子にするという過程にいたく感動してくれた。結果、難しい理論を交えながらメイド科に出張授業をして説明してくれた。
今後も何かと手伝ってくれると言ってくれている、頼もしい同僚である。
それにしても、騎士科で模擬試合というのは、よくやっていることじゃないんだろうか。
不思議に思っていると、ぬっと背後から影が差した。
「今日は近衛騎士団長が来られるんだ」
「近衛騎士団長……というと、ノア様が」
へえ、と思ってミラが呟くと、その巨体はミラの目の前に回り込んできた。
騎士科の教師の一人、ローガンだ。自慢の筋肉を見せたいのか、いつも上半身の露出の高い服を着ている。正直少し暑苦しい印象だが、きっと余計なお世話だろう。
「男に興味のなさそうなお前でも、近衛騎士団長の事は知ってるんだな。本人に許可なく名前で呼ぶのは不敬なんだぜ?気を付けたほうがいい」
ローガンがにやりと嫌な笑みを浮かべる。
この男、新しくできたメイド科を何かと下に見ているような態度を隠そうともしない。
メイド科なんているか?とよく絡んでくる。
メイド科を王立学園に作るかどうかを考えるのはミラの仕事ではないので、基本的には無視している。
「まあ、直接話す機会なんてないからいいか。——残念だったな。ラぺス卿は俺たち騎士科に来られるんだ。メイド科には用がねえからな」
「はあ……まあ、それはそうでしょう」
「見学は自由だぜ。練武場の後ろの後ろなら空いてる。——いや、しかしどうだろうなあ。百合科の生徒らが目の色変えて集まってるからな。メイド科の入る余地はねえだろうなあ……」
「ローガンさん……楽しそうですね」
何が面白いのかげらげらと笑っていて。ミラとしては首を傾げるしかない。
百合科というのは、要するにレディーのための学科である。貴族のご令嬢で構成されている。騎士科も貴族が多いので、交流も多い。
「なんてったって、ラぺス卿は今社交界で、一番結婚したい男と噂されてるからな。ラぺス伯爵家の後継者、王太子殿下のご学友、まだ二十五という若さで近衛騎士団長を務める実力者にして、あの容姿。見つめられたら、腰が砕けるだなんて噂されて——」
「ファンなんですかローガンさん」
人の趣味をとやかく言う事はしたくないが……こんなに筋肉隆々の男の口から、同性の魅力を延々と聞かされても、共感しづらい。
ミラは冷めた目でローガンを見上げた。
「まあ、人の趣味はそれぞれですもんね……」
「いや、ちが……っ、そうじゃねえ」
慌てるローガンに、ミラはすっと片手を立てた。
「あ、いいですよ、隠さなくても。男性が男性を好きになるという事に、私は特に偏見はありませんから。——ノア様もそうだといいですね」
できるだけにっこりと笑って、ミラは固まっているローガンの脇をすり抜けた。
ジルビルさんが肩を震わせている。
今日は重要な「カーテンのシミ抜き」の実技演習の日だ。コツのいる水魔法の使い方が必要になる。
こんなところで時間を無駄にするわけにはいかない。
そして、午後。ミラは練武場に来ていた。
メイド科の可愛い教え子たちがそわそわとしていたからどうしたのか聞いたら、件の近衛騎士団長を見に行きたいと言う。
「だって先生。近衛騎士団長なんて、この先一生お目に掛かれないですよ。この学園に入学して、生きててよかったって思ったのに……!」
「私、村の人たちに自慢しようと思って便箋も買ったんですよ!」
と口々に言っていた。その熱意というか、圧に負けた。
「えっと……じゃあ、このシミがきれいになったら、行ってもいいですよ」
そう言うと十五人全員、あっさりと一時間ほどでマスターしてしまった。
普段の何倍ものやる気を見せて。
やればできるのね、貴方達。
というわけで、授業が早く終わってしまったから、時間が空いて、せっかくなら一目見ようと考えた。
練武場はものすごい人なので、後ろの方に座る。遠いが、何とか見える。
試合はもう終盤のようだった。
騎士科の生徒が五人程並んでいる。その対面に近衛騎士のマントをつけたノアが剣を構えていた。
相変わらず綺麗な顔をしている。生徒たちは汗だらけで息も切らしているのに、息一つ乱さず立っている。
「——次、どうぞ」
「うわああ!!」
五人同時に襲い掛かっているのに、ノアは流れるような動きで次々に剣を躱し、生徒たちを打ち負かした。
練武場の真ん中にはノア一人が立ち、生徒たちは転がった。
「——す、すげえ……」
「レベルが違う」
「動き全部は見えなかった」
そんな呟きがあちこちから聞こえた。
一瞬の間をおいて、黄色い歓声も上がる。百合科の生徒達だ。
「ノア様ー!!」
「ノア様、こちらのタオルをお使いください!」
「貴方ね、ノア様は汗なんてかいてらっしゃらないわ」
「ノア様、こちら、心ばかり差し入れでございます」
女生徒に取り囲まれてノアが見えなくなった。
メイド科の子達はというと、もともと近寄れるとは思っていないのか、どの子も陶酔した顔をしていた。
満足したのなら、良かった良かった。
そう思って帰ろうとした時。
「——あ、待って!」
ノアの声が聞こえた。
こちらに向かって言っているように思って振り返るが、ノアの姿は見えない。勘違いかと思って歩き出そうと思ったら、人垣を分けてノアが出てきた。
「ミラ!」
辺りがどよめく。
「し、知り合いなんですか」
近くにいたメイド科の生徒が聞いてくるので、ミラはこくりと頷いた。
「知り合いと言えば、まあ、顔見知りではあります」
ノアはゆっくりと歩いてきた。
後ろで一つにくくった白金の髪、菫のように鮮やかな青紫の瞳、どれをとっても貴族といった風貌だ。引き締まった身体は露出しなくても、シャツの上からでもわかる。
確か先の武術大会でも、準優勝した実力者だった。
色んな人が遠巻きに驚いた視線を向けてくる。
ローガンも呆けた顔で口を開けたままこちらを見てきた。——ああ、名前で呼ばれたから。想い人だと言っていたのに、悪いことをしたかな。
古くから顔を合わせる機会があっただけで、決して交流があるわけでもない。
何しろ身分の差が大きすぎるからミラから話しかけたこともない。
「ミラ。久しぶりだね」
ミラはぺこりと頭を下げた。
「ノア様。変わらず、素晴らしい腕前ですね」
「ミラが見てると思って、張り切っちゃったよ」
「はあ」
遠巻きだったのに、いつから気づいていたのだろうか。
相変わらずノアはすらすらとそういうことを言う。紳士と言うのは事あるごとにレディーを褒めて立てるものらしく、平民のミラにはこそばゆいことばかりでどうも慣れない。
その上ノアはとにかく優しいので、知らず泣かされた女性は星の数……とメイドの間でも噂になっている。
「では」
「あ、ちょっと……待って!」
立ち去ろうとすると、ノアが慌てて引き止める。
ミラは背筋を伸ばした。
「はい」
「その……お茶でもどうかな」
「すみません、仕事中でして」
ひっ、とどこからか小さな悲鳴のようなものが上がる。
近衛騎士団長の誘いを断るなんて、と騎士科の教師の顔が青くなっていた。
しかし、ミラとしては、別に雇い主でもないのだし、お茶を飲む間柄でもないはずだ。
ミラには明日の授業の準備がある。ゆっくりしている暇はない。
「そうか」
ノアはがっかりした顔で微笑んだ。
「——でも、きっとそう言われるだろうと思ってたんだ。——実は困ってて。ちょっと相談したいことが」
そう言われては、ミラも無下にはできなかった。
ミラはここではなんだから、と言われ、自分の準備室へノアを誘った。
部屋に案内され、ノアは扉を開けたまま中に入って来た。
対面に座ってもらい、ミラはお茶を出す。
「そんなにいいお茶ではないのですが……」
「ミラが淹れたのなら、何でも美味しいよ。ありがとう」
またさらりとそんなことを言って飲んでくれた。
高位貴族の口に入るような種類のものではないのに。
「それで、相談というのは」
「あ、うん、ごめんね。忙しいのに」
ノアは少し考えてから、重い口を開いた。
「実はね。えっと、その、最近……騎士服が、臭うんだよね……。ミラがいてくれた時はそんなことなかったんだけど、雨の日とか」
「生乾き臭ですか」
ふむ。おそらく、雑菌が服に残っているんだろう。
「あとね、ミラが差し入れてくれてたレモン水はきりっと冷えてたけど、なかなかあの味と冷たさが再現されなくて……騎士達が力を出し切れないんだ。それで、困っていて……」
「なるほど、それは困りましたね」
ミラは呟いて、少し考えた後に言った。
「服は、洗う前に熱湯で一度消毒した方がいいですね。洗濯メイドのリサさんに手紙を書いておきます。簡単な火魔法だけでできるので、リサさんでも大丈夫ですよ。それから……レモン水ですね」
うーん、とミラが考え込む。
「レシピは残してきたんですが。厨房のヤンさんは力が強すぎて、レモンをいつも強く絞りすぎるんですよね。私も気になっていたんです」
「——うん、それでね、なんて言ったらいいのか……」
「ちゃんと言っておけばよかったですね。あ!あと、騎士棟に着いた時点で、私、一度容器を凍らせていたんです。それを伝えていませんでしたね。こちらも手紙を書いておきます」
「いや、あのさ……」
「きちんと引き継ぎをできておらず、ご不便をおかけして申し訳ありませんでした」
「あ、うん……」
深々と頭を下げるミラに、ノアが歯切れの悪い返事をする。
はっきり言わないと、ミラはいつも、結構早とちりで会話を進めてしまう。
しかしこの、はっきり言う、というのがノアにはなかなかに難しい。
「ミラは……どう?先生の仕事は」
「とてもやりがいがあります。生徒達もとてもかわいくて」
それはもう楽しそうにミラが言う。
「そうか……」
それからは、しばらく黙ってノアはお茶を飲んでいた。
そしてやがて立ち上がると、胸に手を当て、騎士の礼をした。
「何か困ったことがあったら、いつでも連絡してね。君の事は、その……妹のように思っているから」
「そんな、恐れ多いです」
ミラも慌てて立ち上がった。
貴族と平民の間には、明確な壁がある。
そう言ってくれるのはノアの人柄だろうが、それに甘んじるわけにはいかない。
「でも、ありがとうございます。そう言っていただけて、嬉しいです」
ミラはぐっと拳を握って掲げて見せた。
「もっと精進せねばなりませんね。二年であの子達を育て上げ、皆様のお役に立つ者として送り出せるように!」
そうと決まれば、明日の授業準備にもっと身を入れなければ。
「あ、うん。じゃあ、僕は行かなきゃ。元気で……」
授業準備を始めたそうに、ちらちらと棚を見ているミラに遠慮して、ノアは部屋を後にした。
生き生きしている……。
ノアは歩き出したが、喉につっかえたような言葉を誤魔化すように溜息で吐き出した。
実は、王城に所属するあらゆる者たちにには、貴族から使用人に至るまである厳命が下されている。
『何人も、ミラ・バレリーに戻って来いと言ってはならない』——である。
他でもない国王陛下直々のご命令だ。
戻って来いと言わずにミラを連れ戻すなんて、難しいと分かっていた。分かっていたが、何とかならないかとつい、今までほとんど受けたことのない学園の誘いに手を伸ばしてしまった。
戻って来いと言ってしまえば、ミラが苦しむのも予想できるから、これで良かったのかとも思う。
顔が見られただけでも、良しとしないと。
ノアはそう自分に言い聞かせて、学園を後にした。




