17. 夫婦愛
その日の晩餐は異様な雰囲気だった。
食卓にはジブリールの好物のサーモンとディルのパイ包みが出た。これが出るといつもジブリールは嬉々として饒舌になる。
——が、今日のジブリールは静かだった。
遅れてきて、その理由を話すこともなく、黙って食卓に座った。
いつもと違う雰囲気に子供達も少し戸惑いつつ、何と言っていいのかわからないままに食事が開始された。
しばらく静かな食事の後、カザールがこほん、と不自然な咳払いをして口火を切った。
「今日は不在にしていて、悪かったね。決裁はしておいたから」
「そうですか」
興味がない、と言うよりは、むしろ攻撃とも言えるほどの。
だから?とでも続きそうな声音だ。
「あー……明日、久しぶりにゆっくりしないかい?君も働き通しで疲れているだろう」
「いえ、大丈夫です」
そっけない返事。
カザールが堪りかねて、ナイフを置いた。
「ジブリール。どうかしたのか?」
「貴方こそ」
ジブリールもナイフを置く。
そうして、口元を拭き取り、茶色い瞳でカザールを見据えた。
「私に話す事はありませんか」
レオンとランセルフが顔を見合わせる。
「父上何したの」
ランセルフがひそひそとレオンに話しかけた。
「しっ」
少しぴり付いた雰囲気だったが、カザールは困ったような顔を浮かべるばかりだった。
「弱ったな。全く心当たりがないんだ。ジブリール、何を心配しているのか教えてくれないか?」
ジブリールのため息が響く。
給仕のメイドまでが息を殺していた。
「ミラにイグルスの遊び相手を命じたそうですね」
「ああ。偶然——いや、君にはお見通しか。ミラが仕事をしている所にイグルスを連れて行ったんだ。そしたら、思いの外仲良くなってね。試しに遊ばせてみたら、仲良く遊んでくれて」
今、この場にイグルスはいない。別室で生まれたての第四皇子と共に幼児の食事をしている。
カザールがこの場に似つかわしくない嬉しそうな顔で言う。
ジブリールはぐっと手に力が入った。
「私は聞いていませんでした」
「言うほどの事でも……いや、そうだな。すまない。反対なのか?——でも、あの子は」
「ミラがいい子なのは分かっています」
カザールの口から聞きたくなくて、ジブリールは重ねるように言った。
「貴方はあの子を憐れんで気にかけていたのかと思っておりましたが」
「そうだね。憐れみというのか、気がかりではある。何しろあの子はまだ九つだ。まだ遊びたい盛りだろうに」
「ほんとうにそれだけですか」
「他に何があると言うのだ」
ジブリールがレオンとランセルフを見た。食事はほぼ終わっている。
レオンが察して椅子から降りた。
「ランセルフ、行くぞ」
「なんで?これから面白いのに」
「馬鹿、早く来い」
レオンが腕を引っ張って、ランセルフを椅子から降ろす。
メイドがやってきて二人を連れて出てくれた。
子供に気を遣わせるなんて、情けない。けれど、やっぱりこのままでは食事も続けられそうになかった。
「ブリー、一体どうしたんだ」
カザールがそっと手を重ねてきた。
いつもなら愛情を感じるその手が、今はどこか居心地が悪い。
「カザール」
ジブリールは夫の名を呼んで、すっと手を引いた。
「あの子に申し訳ない気持ちは無いのですか。——父親として」
「申し訳ない……?」
カザールは訳が分からない、と笑った。
「いくら何でも。イグルスの相手を無理矢理させていると思っているのか?私も気掛かりだから見に行くようにしている。イグルスがミラに多少無茶を言っても、あの子は上手くかわしているよ。ミラだって楽しそうにして——」
「そうではなくて」
カザールが両手を広げて首を傾げている。
いけしゃあしゃあと。
ジブリールは語気を荒げた。
「ミラの事を、どう思っているのです」
「ミラ……?いい子だろう?私達には息子ばかりだから、娘がいたらあんな感じかと——」
ガタン!
ジブリールはその場に立ち上がった。
「ブリ―?大丈夫か、顔色が……」
「そういう……事……?」
ジブリールは唇を震わせた。カザールが伸ばす手を振り払う。
「私が!男の子ばかり産んだからですか!」
「——待って、待ってくれ。ジブリール。いったい何を怒っている?いや、顔色が悪い。休んだ方がいい」
「いいえ。休めるものですか」
ジブリールは今度は自分からカザールの方へ近づいた。そしてその胸倉をつかんだ。
カザールは初めての妻の激怒に、どうしていいのかわからず、とりあえず両手を挙げた。
「この人でなし。貴方が、そんなにひどい人だったなんて思わなかった!これまで妻として、王妃として貴方を尊敬し、支え、この身を捧げてきた……私の時間を返して!」
「ジブ……」
「いい。私の事はどうでもいいわ。——謝りなさい。息子たちに謝りなさい。ミラにも。そして、不幸な死を遂げたミラの母親にも。いいえ、謝ったって足りないわ。さっさとレオンに王位を譲って、生きていてごめんなさいって謝って修道院にでも引きこもったらいいのよ!」
叫び続けて、息が切れる。
誰もが糸を張ったような緊張の中、ジブリールのはあ、はあという乱れた息だけが聞こえた。
メイドらが固唾をのんで見守っている中、胸倉をつかまれたカザールは、ただもう何が何やらわからないままに、怒り狂った妻を凝視していた。
とにかくこの興奮した愛する妻を宥めたい。しかし、何かを言う度に妻は怒ってしまう。
どうしていいかわからなかった。
万歳をした手が疲れてきた頃、ジブリールの目に涙が溜まっていくのが見えた。
カザールは弾かれたように立ち上がった。反射的に、ジブリールを抱きしめていた。
「ジブリール。どうしたんだ。一体。愛している。君が怒って、涙するほどの事を、私はしてしまったのか?」
「あ、貴方の愛を……私は、一度だって……疑ったことはなかった」
カザールからの抱擁を拒絶したかった。けれど大きな腕に抱かれると、自分がまだこの男を愛しているのだと自覚して、払いのけられなかった。
そう思うともう。怒りよりも情けなさばかりだった。
「愛して、いたのに。私を裏切るなんて……」
「——————は?裏切る?」
「——ミラの、父親は……貴方なんでしょう」
「……………………」
「…………っう、うう……」
「……………………」
豪華な晩餐の間に、ジブリールのすすり泣く声だけがする。
数呼吸おいて、ようやく、カザールがその言葉の意味を理解した。
「はあ!?違うよ!なに、何だって!?誰がそんなことを!」
「——裏切りは許せないけれど。嘘はもっといや」
「ジブリール。私の目を見て」
カザールはジブリールの顔を両手で支えた。
幼い頃からの付き合いだった二人は、こうして幾度となく見つめ合ってきた。
ジブリールはカザールの深い青の瞳が大好きだった。見つめられると、やっぱり綺麗で、見とれてしまう。
カザールは大きな手でジブリールの涙を拭った。
「私は嘘をついていない。どうしてそんな風に思ったのか、教えてくれ。神に誓うよ。私の命に誓ってもいい。君以外を愛したこともないし、不貞を働いたこともない。愛しているのは君だけだ」
「でもあなた、ミラに、お父さんって呼んでごらん、だなんて」
「—————っ!君、来てたのか!あれはちょっと、ミラが……頭をなでてやると、切なそうな顔をするから、つい。すまなかった。父親のように、あの子の寂しさを軽くしてやりたかったんだ。——ごめん」
ジブリールは何度か瞬きをした。
カザールの態度から、嘘は言っていないように思う。そう思うと、先ほどまでの絶望が嘘のように引いていく。
「———なんだ。そうだったの?」
「そうだよ。私が君以外を愛するわけないだろう?シュバインレアの男の愛がどれほど重いのか、君は知っているだろう」
シュバインレア王朝は珍しく一夫一妻がほとんどの歴史がある。一途が過ぎる愛の重さで、度々戯曲にされるほどだ。
「私……馬鹿みたい。恥ずかしいわ」
顔を俯けようとするジブリールを、カザールは改めて抱きしめた。
「そんなことないさ。不安にさせて悪かった。愛が足りなかったかな。——愛しているよ」
「カザール……」
二人はその後も長らく抱き合っていた。
修羅場から一転、愛の抱擁を見せつけられ、居合わせた使用人らは胸をなでおろした。
もちろん、壁と一体化して全員が存在感を消しつつ表情も一切変わらなかったが。




