10. お忍び
リックがいなくなって、ミラは少しほっとした。
石畳の床に数滴垂れた黒い油を見て、その場にしゃがむ。
指先に水の渦を作って油汚れを濯いで、道端にあるゴミ箱に向かってその水ごと捨てた。
「おや、綺麗に落ちるねえ」
通りすがりのおばさんが感心したように言った。
「油汚れは厄介なのに。水で落ちたのかい?」
「酸性の水にしたんです。ちょっとコツがあるんですが……」
説明が難しい。水の中の酸性アルカリ性を操作するのは生活魔法の中でも上級で。
「すごいねえ、あんた魔術師かい?」
「いえ、メイドです」
石畳の油を放っておけば誰かが怪我するかもしれないとなんとなく思って片付けただけなのに。こんなに感心されるとミラも嬉しくなった。
さっきまで気分が落ち込んでいたのも晴れていく。
ひとしきり感心し終わっておばさんが去って行くのを見送って、ミラはさて、と背筋を伸ばした。
今から何をしようか。そろそろお昼ご飯の時間だ。
「——あの無礼者は、いつもああなの?」
無礼者って……。
随分と上品な言い方をするな、と思って隣を見て。
ミラは驚いて口を開けたまま固まった。
「ミラがどうしていつも自分に自信がないのかと思っていたら……ああいうとんでもない愚か者がいたんだね」
レオンだ。
あまりに自然に横に並ばれて、分からなかった。
マントのフードを被って、旅行者のようななりをしているけれど。くすんだ茶色の髪と瞳に変装してはいるけれど。
——この顔とオーラは、紛れもなく、王太子殿下だ。
「おっ……」
レオンがすかさず人差し指を自分の口に当てた。
「いつもの呼び方はだめだよ。お忍びだから」
「な……え、でん……」
ミラは言葉にならなかった。
王太子殿下、と言いたいところだが、それもダメだと言われたら。
「名前で呼んで。よくある名前だから」
「と、とんでもないです」
頭を下げるのもダメなんだろうか。そう考えて、ミラははっと気づく。
「——あ、まさか、油を飛ばしたのって」
「私だよ」
レオンは悪びれもせず、にっこりと笑った。指先をくるくると回して、魔力の渦を作って見せる。
この精密な魔力操作は多分、王国で右に出るものがいない腕だ。
「だって、腹が立つじゃないか。誰だか知らないけど、ミラに馴れ馴れしい上に、言う事全て悪辣だ。私が表立って出て行くわけにもいかないからね。苦肉の策で、あそこの店主の手のものを借りたんだ」
「リックはパン職人です。昔王城に出入りしていた」
「知らないなあ。——ああいうこと、よく言われてたの?」
「いえ。お城の人たちは、皆いい人ばかりで……」
「お城の人って言うのは、王城に住みながら働いている人たち?」
王城住まいの使用人と通いの使用人とは、実は少し区別されている。
王城住まいになるくらいだと、かなり厳格な審査を通らなくてはいけない。結果、重要な役割を担うのは王城住まいの使用人になるし、その他大勢の通いの使用人とは序列が上と言ってもいい。
そんな中、ミラが王城住まいのまま使用人の真似事を始めたから、それを面白く思わない者がいたのかもしれない。
「ミラって、結構思ったことすぐポンポン言うのに。あいつの前ではどうして言い返さなかったの?」
「そうですか?いつもこんな感じだと思いますけど……」
だってリックの言うことはまあ、正しいと思う。
ミラは人に恵まれて今日まで来た。そこに胡坐をかいているつもりはないが、そう見えるのも無理はない。事実、十年間育ててもらった時、たくさんの人の温かさに触れた。本当にいい人たちばかりだった。
「あ、でも、メイドの学校は必要ないだろうって言われたのは、ちょっと腹が立ちました。だから、私、油を無意識に飛ばしちゃったのかと思って」
ついおかしくて、顔が緩む。
いい気味だなんて思っちゃいけないのに。あの油は洗濯でも落とすのに苦労しそうだ。きっと生活魔法を使わないと難しいだろう。
「その割にはコントロールが抜群すぎるから、やっぱり私じゃなかったなって」
ミラはレオンを見上げた。こうして見るのは不敬だけど、久しぶりに見るレオンが懐かしくて。
「相変わらずの素晴らしい魔力操作ですね。羨ましいです」
ミラがにっこりと笑うのを見て、レオンもつられるように笑った。
「その顔が見たかったんだ」
このレオンの少し照れたような微笑みは、昔から少しも変わっていない。
王太子なのに気さくに話しかけてくれる。四つも年上なのに、時折年下のように振舞うことがある。
いつからか、レオンは時々ミラを訪ねてくるようになった。そしていつも優しく笑ってくれる。
絵画の中の天使みたいだなといつも思っていた。
——天使と言えば。
「——あ。殿下、もしかして」
「もー。ミラ、聞いてなかった?私の話。こんなところでそんな呼び方しないでって」
「……………レオン様」
「うん、何?」
「もしかして、私が風邪ひいた時、私の部屋にいらっしゃいましたか」
「あ、覚えてる?」
何でもないことのようにレオンが言った。
「朦朧としていたから覚えていないかと思ったよ」
「——本当に、いらしてたんですね」
「あ、ちゃんと二人っきりにはなってないよ。私の後ろに、いつものほら、影がぴったりついてたからね」
「はあ……」
問題はそこじゃないと思う。
でもそれは自分の言う事ではないと思うから。ミラはぺこりと頭を下げた。
「看病してくださって、ありがとうございました」
「いいえ」
それで、とレオンは嬉しそうな顔のまま続けた。
「何を話したか覚えてる?」
「いえ、すみません、あまり……」
「そうかあ。——あんまり言うとだめなんだけど」
「何の話ですか?」
「父上に先手を打たれたからね。忌々しいったら」
苦々しい様子でそんなことを言うから、ミラはびっくりした。
「陛下に、そのような……」
「はいはい。ミラは父上が本当に好きなんだから」
「い、いいえ。そんな。私なんかが」
ミラは慌てて手を振った。
それから国王の優しい顔を思い浮かべて、ゆっくりと胸に手を当てた。
「——尊敬しているお方です」
「面白くないなあ」
レオンはまたつまらなさそうに呟いた。




