#15 神と仏と酒取り合戦①
人の噂話ほど敏速なものはない。
ましてや、『都随一の色男がこそこそと行っていること』に対する人々の好奇心は凄まじかった。
あの口布配布行脚の日以来、清麻呂に関する噂は電光の如く街中を駆け巡り、瞬く間に広がった。
数日も経っていないのに市中では口布を付けている人が増え、手洗いやうがいをしている人もそこかしこで見かけるようになった。
「噂話は元手のかからない娯楽じゃからの。どんなに貧しいものでも楽しめる。麿のような麗しい青年の噂話なら、なおのことじゃ」
清麻呂は彼の自室から離れた場所で針仕事をしていた野分の目の前わざわざ来ては、ひとしきりふんぞりがえって高笑いをしてみせた。
そんな清麻呂を無視して野分は針を進める。
現代にいた頃には家庭科の時間でしかやったことがなかった裁縫も、こちらにきてからは随分と腕が上がっていた。
清麻呂が職人に作らせた口布の雛型に則り、すいすいと針を滑らせる。
気づけば彼女の隣には、今日まで仕上げた口布がすでに数十枚積み上がっていた。
自分の裁縫の腕前も随分と上達したものだと、完成した口布を両手で広げて悦に浸っていると、清麻呂の顔がにゅるりとその間に割り込んでくる。
「文化や習慣というものは、そう簡単には覆せぬ。それを命令で服従させれば、少なからず反感を買うであろう。それがどんなに民のためになろうともな」
ちんまりとした鼻の穴から勢いよく息を吐いて、彼は続けた。
「楽しみを与えて自発的に行動させるのが賢いやり方じゃ。そなたが以前言っていたような与えるだけの施しは、どうしてもそれを用意できぬ本当に貧しいものだけに行えば良いのじゃ」
檜扇の先が口布越しに野分の鼻を押し上げる。
確かに、都中の人の口布は用意できなくても、このくらいの量ならば野分にも拵えることができる。
それもこれも、この目の前でポニョンポニョンと跳ねている二頭身の彼のおかげだ。
彼はいわば、この時代のインフルエンサー。
彼の発案と影響力のおかげで、これほどまでに迅速にマスクの着用を広められた。
感謝すべきなのは分かっている。
しかし、どうしても素直に言葉が出てこない。
「……清麻呂が今まで猫を被ってきたことは無駄じゃなかったんだね」
「ふん!今更気づいたのか。麿の行動にはきちんと理由があるんじゃ!そんじょそこらの者と一緒にするでない!」
ただの目立ちたがり屋だと思ってたわと軽口を叩けば、いつもの通りゴム毬のように跳ね回って抗議をしてくる。
このやりとりにすっかり慣れてしまった野分は、凝り固まった背筋をうんと上に伸ばしてあくびをしながら呟いた。
「あとはアルコール消毒できればなぁ。それと、できれば市中に放置されている遺体も片付けたい。あと人糞の処理方法も考えたいし、民衆の栄養状況も……」
「はぁああ。まだやりたいことがあるのか?そなたは政でもするつもりか?」
「私だって、やらなきゃいいならしたくない。でも、その政がうまく機能してないからやってるんじゃない」
できることなら今すぐにでも現代に帰りたい。
しかし、それが叶わないから、ここで生きていくしかないから、少しでも生活環境を改善したいのだ。
野分はため息を漏らしながら、手元のスマホを眺めた。
「……情報だけあっても、何もできないんだなぁ」
ポツリとこぼした本音を、清麻呂が耳聡く拾う。
珍しくしおらしい野分を訝しげに眺めながら、
「──腹でも下したか?」
と、糸のような目で彼女の顔を見上げた。
それがあまりにも心配そうな声色だったため、思わず吹き出す野分。
せっかくの気遣いを笑い飛ばされてしまった清麻呂は、再び頬を真っ赤に膨らませては、彼女の脛をべしべしと叩く。
野分はその場で足踏みをするように足をバタバタと上下させながら、それを避けた。
「ごめん、らしくないよね!心配してくれて、ありがと!これ、里のところに届けてくる!」
野分は横に積み上げていた口布を風呂敷で包んで、爽やかな笑みを浮かべながら颯爽と部屋を後にした。
「……まこと、忙しない娘じゃの」
野分が門から出ていくのを見届けると、清麻呂は自室へと足を向けた。
口調こそ呆れ果てていたものの、その頬はほんの僅かに緩んでいた。
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