#13 明石の一の姫②
「……姫?」
「出ていって……」
重々しく肺から吐き出される空気に、しがれた懇願が混じる。
清麻呂はそれ以上何も言うことができなくなり、姫の髪をそっと一撫でして、その部屋を後にした。
「清麻呂……」
「──とにかく、里を呼べ。あの匙では埒が明かぬ」
一瞥もせずに廊下を進む清麻呂が、野分に呟く。
彼の表情は闇に溶けて見ることはできなかった。
その後、家の主人と話をした後、清麻呂は牛車に乗って屋敷に帰って行った。
野分と要はその足で里の小屋に向かった。
「ねえ、清麻呂と奥さん、仲悪いの?」
松明で照らされた馬の鬣を眺めがら、野分が呟く。
ほとんどの人が寝静まった真っ暗な市中には、虫の鳴く声とこの馬の馬蹄のみが響いていた。
「……俺は、あんなに仲睦まじい方たちを見たことがない」
野分の背後に座っている要が、闇に向かってポツリと答えた。
「でも、さっき……」
「長らく床に臥していれば、気落ちもしよう。一の姫様は元はとても明るく、前向きな方だ」
「そうなの?いつからあの状態なの?」
「ひと月ほど前からだ。それまでも体調の悪い日はあったようだが、気丈な方ゆえ、若様の前では隠しておられたのだろう」
「そう……。でも医者に診てもらってるんでしょう?原因とか、わからないの?」
「……分からない。痘瘡でも瘧でもないという。生まれ持った病もないし、不健康な生活をしていたわけでもない。要因が見当たらないんだ」
ぎちっと奥歯を噛み締める音が、背後から聞こえた。
「若様のためにも、なんとしても姫様をお救いしたい。野分、協力してくれ」
野分はパッと後ろを振り向いた。
「……!」
思いのほか要の顔が近くにあり、野分は一瞬、息を吸うのを忘れた。
馬の足音よりも早く収縮を繰り返す心臓をぎゅうっと抑え、
「命の恩人に頼まれたら、断れないよ。しょうがない!協力しますよ!」
と、いつものように飄々とした様子を装って誤魔化す。
「それに、うちらには里っていう大天才がいるからね!絶対に大丈夫だよ!」
野分は真っ赤に染まった耳を手で隠しながら、進行方向に向かって大きな声で叫んだ。
「……ああ、そうだな」
要はほんのわずかに口角を上げると、馬の腹を強く蹴り、走る速度を上げた。
小屋についたときはもう、丑三つ時を過ぎていた。
どの家も明かりが消えて闇に溶け込んでいるこの深夜でも、里の小屋だけはほんのりと明かりが漏れている。
その光は控えめで小さいけれど、まるで希望の光のように暖かく安心感がある。
勤勉で働き者で優しい彼女は、いつも必要最低限の睡眠しかとっていない。
一人で何人もの患者を診てきた彼女にとって、『眠る』と言うことが患者の死につながるということを今までの経験から学んでいるからだ。
「里、起きているか」
馬から降りた要が、薄い木の壁を控えめに叩く。
いつもならすぐにあの朗らかな笑顔がひょっこりと現れる木の扉が、今日は動かない。
「寝ちゃってるのかな?」
野分はそっと扉の端に指を入れて、静かに横に引いた。
中を覗いてみると、里は机に突っ伏している。
今日は手伝いができなかったから忙しくて疲労が溜まってしまったのだろう。
野分はそう考えて、足音を殺しながら申し訳なさそうに彼女に歩みを進めた。
「……待て」
野分の腕を要が掴む。
振り返って見た要の目は、何か恐ろしいものを見たようにカッと見開かれていた。
要はそのまま足早に駆け寄り、里の額にひたりと手を当てた。
「……発熱している」
「え?!」
里は要に触れられても何の反応も示さずに、ぐったりと横たわったままだった。
要は急いで彼女を抱き上げ、横に敷いてあった布団へとそっと寝かせる。
そこで初めて里の苦悶の表情と、荒い息遣いに気づき、彼女の体調の異常さに気付かされた。
「そんなっ!里っ!」
玉の汗を額に浮かべている友人に、亡くなったタエの姿が重なる。
何もできずに、ただ見送ることしかできなかったタエ。
もしかしたら、里も──。
悪い想像は、野分の心をこれ以上なく不安に陥らせていた。
泣いている場合ではないのに、勝手に涙が溢れてくる。
「野分」
要が低く彼女の名前を呼んだ。
「里は俺が看病する。他のみんなも、俺が看る。野分、お前は一の姫様を助けてやってくれ」
「でもっ!里……里が……」
「頼むっ!」
皮膚をビリビリと震えさせるような大声に、野分の肩がびくりと震えた。
「……死なせない。絶対に。たった一人の妹なんだ」
要は眉根をきつく寄せ、悲痛な面持ちで里の手を握った。
その顔は、清麻呂が姫の真っ白な腕を握っている時の表情を思い起こさせた。
野分は皮膚が張り裂けそうなほど拳を硬く握りしめ、滲む目を乱暴に擦ると、
「──里を、よろしくお願いします」
と、決意の色を浮かべた鋭い眼差しと共に、要に向かって頭を下げた。
「清麻呂様と姫様を、頼んだ」
要もまた、野分に向かって深々と頭を下げる。
野分はそれに大きく頷くと、馬にまたがり、先の見えない闇の中をひとり駆け抜けていった。
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