#12 大内裏潜入⑩
あと数センチで野分の爪が清麻呂の首筋に食い込むというところで、聞き慣れた声が庭先に響いた。
砂を蹴り上げる音とともに姿を見せたのは、要だった。
「ッ……?!野分!なぜここに?!」
「あー……はは!いや、それよりそんなに慌ててどうしたの?」
彼は話題を変えてはぐらかそうとする野分の言葉に、ハッと目を見開くと、清麻呂に向き直して頭を垂れた。
よほど慌てていたのだろう。
いつもなら周囲の人に聞こえないよう、清麻呂にこっそりと耳打ちするはずの彼が、その場で口を開いた。
「明石の一の姫様が……」
清麻呂の目の色が変わる。
「姫が、姫がどうした」
「ご容体が……」
そこまで聞いて、清麻呂は突然走り出した。
普段あれだけ優雅さを重視している彼が、人目も気にせずに裾を持ち上げて大股で土を蹴り上げていく。
目上であるはずの侍医や晴明に目もくれず、ただ真っ直ぐに門へと突き進んでいった。
「牛車を用意しております!そちらにお乗りください!」
慌てて立ち上がった要が彼の背に向けて叫ぶ。
なにがどうなっているのかわからない野分はその場で呆けていたが、要にグイッと腕を掴まれてハッと正気に戻った。
「失礼いたします」
要は主人に変わり、三人に向かって丁寧に頭を下げた。
そして、野分を小脇に抱えると、門の外へと飛び出した。
門の横に控えさせていた葦毛の馬に野分をのせ、その背後に跨り馬の脇腹を足で叩く。
清麻呂の姿も牛車の影も、どこにも見えなかった。
ただ、前方から聞こえてくる通行人たちの悲鳴から、その進路はおおよそ把握できた。
「明石の一の姫様って、誰?」
激しく揺れる馬上で、舌を噛み切るまいと気をつけながら野分が尋ねる。
要は真っ直ぐ進行方向だけを見据えて、
「若様の北の方様だ」
と、答えた。
「北の方って……奥さんッ?!」
ええええっ?!という野分の長い叫び声と忙しない馬蹄の音が、遠ざかりながら大内裏を駆け抜けていった。
大通りに舞い上がった土埃がだいぶ落ち着いた頃、内裏の内側のとある御簾が僅かばかりに開いた。
その隙間から、するりと扇の先端が覗く。
「──今日はずいぶん賑やかね」
貴賓ある声の持ち主が、ポツリと呟いた。
「ネズミでも出たんでしょうかね」
壁の向こう側を見ようと、廊下に出て必死に背伸びをしていた侍女がこちらを振り返る。
「捕まえてきて、芸でもさせましょうか?中宮様!」
「よしなさいな。あなたってばいつもそんなことを言うんだから」
声の主がくすくすと笑うと、侍女は残念そうに壁を眺めながら、
「活きのいいネズミなら、いい暇つぶしになると思ったのだけれどなぁ」
と肩を落とした。
「あら、暇なの?じゃあ、もっと仕事あげる。ほらほら、これを書き写して」
御簾の隙間から差し出した本や巻物がどさどさと積み上げられていく。
侍女は「ヒィ!」と息をのんで一歩退いた。
「くっ……!ネズミめ!今日の日記の餌食にしてやるわ!」
彼女は唇を噛みしめながら、山積みになった書類を泣く泣く自分の机に運んだ。
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