#12 大内裏潜入⑦
野分は尻尾を踏まれた猫のようにその場に飛び上がり、次の瞬間には逃走を計っていた。
足元に散乱している巻物を器用に避けながら、わずかな隙間を飛び石のように移動していく。
義道は慌てて野分を追うが、不器用な彼にそんな芸当ができるはずもなく、足元に気を取られては野分との距離を広めていた。
「野分ッ!ここには来るなって言ったろ!」
「ごめんってば!お願いだから、清麻呂には言わないで!」
「んなわけいくか!いいから止まれ!」
「ぎゃーーッ!足が速すぎるッ!」
巻物の海をかき分け、ようやく本調子になった義道は暴れ牛の如く野分に駆け寄る。
野分は典薬寮を飛び出し、大通りまで逃れていた。
「うわぁ?!」
「きゃあっ?!」
大きな荷物を乗せている荷車の隙間を縫ったり、わざと女官たちの間をすり抜けたり。
野分の通った後には人々の困惑した悲鳴が次々と上がった。
「お前はネズミかーーーー!!!」
しかし、どんなにちょこまかと逃げ回ろうと、義道の豪脚にかなうはずもない。
野分は知恵を側からせながら全力疾走するも虚しく、あっさりと首根っこを掴まれてしまった。
「まったく、お前はッ!じゃじゃ馬にもほどがあるだろうッ!」
まるで捕獲された野良猫のように暴れる野分を、慣れた手つきで縄で縛り上げる。
リードをつけられたペットのような状態になった野分の頭を優しくこつりと小突くと、
「清麻呂の所に行くぞ」
と、ため息混じりに呟いた。
野分は観念したかのようにぐったりと首を垂れていたが、突然ハッと顔を上げて、
「検非違使だけは嫌だーーっ!」
と、大内裏中に響き渡る声で叫んだ。
「うるさッ!」
野分の悲痛な叫びが義道の鼓膜を劈く。
普段どれほど野分が奔放な行動をしても気さくに笑ってくれる彼であったが、こればかりは顔を険しくしかめた。
まるで珍妙な虫を指で摘んでいるかのように最大限に腕を伸ばし、野分からできるだけ距離を取っている。
「別に検非違使に突き出したりはしない!」
「本当に?!」
「ただし、清麻呂にはきちんと叱ってもらう。検非違使より怖いぞ、あいつは」
ふっと鼻で笑う義道の顔を、野分は顔面蒼白で見つめる。
そんな彼女を哀れに思ったのか、義道は特大のため息を吐きながら、
「あとでうまい物やるから、ちゃんと謝るんだぞ」
と、呆れたように笑って彼女を優しく嗜めた。
野分はしょぼくれた声で「うん」と返事をして、そのままとぼとぼと義道の後をついていく。
「……義道さん、私の知り合い、探してくれてたでしょう」
「うん?」
突然の話題の切り替わりに頭がついていかず、義道は頭を捻った。
思い当たる節を脳内で探っていた義道がバッと背後を振り返った。
「あの髭の男、お前かッ!似てると思ったら、お前本人かよッ!」
「こんな状況だけど、義道さんありがとう。めっちゃ優しいよね」
「フンッ!」
耳の先端まで真っ赤にした義道は、ガニ股のまま荒々しく民部省の門をくぐっていった。
民部省の中は他の部署よりも雰囲気が落ち着いているように見えた。
人の出入りはむしろ他の部署よりも多いのに、そこには粛々とした空気が満ち溢れていた。
言うなれば会員制の図書館のような、雰囲気のいいインテリアショップのような、そんな謎の高級感さえ漂っている。
義道はどうにも居心地悪そうにソワソワと体を揺らしながら、敷地の中に進んでいく。
「……清麻呂、こんなところで仕事してるの?」
「まあな。俺はどうも苦手だわ、ここ」
確かに義道のような体育会系はここにはいなかった。
いかにも品がよく雅やかで、線の細い人しか見当たらない。
こんなところで、あの二頭身が働いていると思うとプスッと口から空気が溢れてしまう。
「清麻呂、どこかな?」
野分はこれから叱られるということも忘れて、爛々と目を輝かせながらあたりを見渡した。
「あれだ、あれ。今、棚から帳簿を取ってるだろ」
「……へ?」
義道の指先を目で辿る。
そこには一人の青年が立っていた。
真珠のように白い肌。
すらりと伸びた手足。
長い睫毛が生えそろった涼やかな目元。
薄い花びらのような気品あふれる口元。
まるで瑞々しい桃のような淡い色の頬。
帳簿をめくる指は白魚のように細く、先端には桜貝のような薄く艶やかな爪が付いてる。
清麻呂とは似てもにつかわない絶世の美男子が、そこにいた。
光源氏が実在していたら、おそらくこんな人だろう。
彼の周りに舞い散る花びらの幻覚さえ見える。
野分は思わず息を呑み、まるで時間の流れが止まってしまったかのように、彼から目が離せなくなった。
その時、彼の近くを歩いていた他の役人が手を滑らせて荷物を落としてしまった。
箱から飛び出した細長い木の棒が、床一面に散らばる。
その美男子はすぐに帳簿を置いて、床に散らばったものを拾い集めた。
「申し訳ございません、少輔殿!お手を煩わせてしまって……」
落とした人は慌てて頭を下げる。そ
の頬はほんのりと赤く染まっていた。
美青年は穏やかな笑みを浮かべ、拾った木の棒をまとめて手渡した。
「いや、気にするな。それより、大事ないか?」
「は、はい!」
「それは重畳。しかし、算木は我らの大切な道具じゃ。扱いには十分注意せねばな?」
「は、はい!肝に銘じまする!」
手渡された職員はまるで心酔しているかのように、うっとしした表情で彼を見つめた。
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