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プロローグ 桜の木の下
妖しいほどに美しい満開の桜が空を覆い隠し、ほんのりと紅色がかった白い天井を形作っていた。
まるでこの老木が人の魂を吸い取り花を咲かせているのではないかと感じさせるほどに、桜は咲き誇っている。
誰も近づかないこの桜の木の下で、女は老木のごつごつした木肌に触れた。
女は心の中で語りかけた。まるでこの老木に兄の魂が宿っていると思っているかのように。
(お兄ちゃん。もうあれから6年もたっちゃったね)
返事はないが、女は心の中で語りかけ続けた。
(苦手な物理と数学をがんばって、お兄ちゃんと同じ工学部に入ったよ。3年かけて、誰がお兄ちゃんを苦しめたのか、つきとめたよ。あの人達の何人かは、今もここにいる……)
女はため息をついた。
(なのに……。臆病な私は何もできない。お兄ちゃん、勇気をちょうだい。せめてあの人には、罪を思い知らせたいの)
老木は何も言わない。
女は満開の桜を見上げた。
あの日、兄が最後に見たであろう光景を。