1章1話
「敵はサッカー部」、略称「敵サ」
第1部スタート!
「新入生の皆さんは、悔いのない3年間を過ごしてください。これで終わります」
校長の長い祝辞が終わると同時に、今まで静寂に包まれていた体育館のそこかしこから、中身のない拍手が巻き起こった。祝辞の内容はよく覚えていない。
これから待ち望んだ高校生活が始まる。悔いの残らないようにか。オレは校長の最後の言葉を反芻する。ありきたりな言葉だが、今のオレには少し重く感じられた。
オレには叶えたい夢がある。野望、と形容した方がいいのかもしれない。いずれにせよ、とても大事な目標があるのだ。まずは部活見学をしなければいけない。来週から部活動が解禁となる予定だ。
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入学式が終わり体育館に詰め込まれていた二百人弱の新入生の大群が教室へと戻っていく。オレは教室へ帰る道すがら、校舎のあちらこちらに目を配る。鉄筋コンクリート造りの校舎に、狭くも広くもない校庭。薄汚れてはいるものの変色はしていない窓ガラス。樋を伝った雨水による汚れ。どこかノスタルジアを感じさせる佇まい。
公立と言うだけあって綺麗とは言い難いが、汚くはない校舎だ。確かまだ創立三十周年程度だったか。オレは入学説明会で配られた学校案内に記載されていた文章を想起する。しかし、それ以上の情報を思い出すことは出来なかった。
軽音楽部の有無と、同じ中学校から進学する生徒がいないかどうかだけを気にかけていたので、それ以外のことはあまり覚えていない。
長い生徒の列はやがて教室がある棟に入る。教室を目指す集団は階段の前で長い渋滞を引き起こしていた。入学式に参加していた全校生徒がこの階段を使うのだから混雑して当たり前だ。
オレは人混みを避けるため、校舎一階廊下を階段よりも奥に進んだ。そして、体育館方面とは真逆の階段を目指す。かなり遠回りにはなるが人で溢れかえっている空間を通っていくよりは幾分かましだ。
予想以上に奥の階段は閑散としていた。窓がなく薄暗いので、確かに上るのを一瞬躊躇いそうにはなるのだが、こんなに空いているのだからみんなこっちを使えばいいのに。オレは秘密の隠れ家を見つけた少年のような気持ちになった。誰も知らない秘密の階段を登っているのではないかと、その空っぽで縦方向へと伸びる空間は錯覚させた。
しかし、この階段が避けられている理由がすぐにわかった。まず、汚いのだ。黴臭が漂い、壁や床は汚れ、虫が舞い、水が入ったまま長時間放置されたバケツが転がっている。学校七不思議がこの学校にもあるとしたら、そのうち少なくとも一つはこの場所ではないだろうか。
お化けでも出るのではないかと警戒しながら階段を上る。すると、唐突に低音が響いてきた。喫驚して体が跳ねる。ゆっくり音のする方へ近づいてみと、すぐにその音の正体がわかった。鼻歌だ。オレの他にもここを使う生徒がいたのだ。
黒髪セミロングの女子生徒である。胸元に付いているリボンカラーが赤なので一年生であることがわかった。この女子生徒は誰も聞いていないと思い、鼻歌を歌っているのだろう。ここでオレの存在が彼女に認知されれば彼女は気まずくなり、なんとも居心地の悪い空間が出来上がってしまう。コミュ症なオレとしては何としてもその状況を避けなくてはならない。
オレは彼女に見つからないように隠れながら階段を上ることにした。
しばらくしても彼女はオレの存在に気づかない。鈍感なのか歌に集中しているのか、それはわからない。段々この状況にもなれてくると、オレは彼女の歌が少し奇妙であることが感じ取れた。
メロディラインにしては単純でリズムにしては複雑な旋律。女子にしては低すぎる歌声……。わかった。これはベースラインだ。曲名はわからないが、ベースラインを歌っている。ベースラインを歌うなんて珍しい人だな。ベーシストだろうか。もしかしたら同じ軽音楽部に入部するかもしれないな。どんな人なのだろうか。ベースは上手いのかな?
オレは近日中に部活メイトとなるかもしれない女子生徒の鼻ベースを聞きながら目の前の女子生徒の性格やスキルを推測する。
そのとき、薄暗かったためよく見えていなかった女子生徒の姿がまるでステージに居るかの如く光に照らし出された。三階から四階の間の踊り場に設置された窓から差し込む光がステンドガラスのような虹色を映し出し、彼女の細いラインを縁取る。彼女の輪郭を描くラインはか細くも力強く、荘厳な輝きを帯びていた。彼女の肩にかかった漆黒の髪は毛先まで真っ直ぐ伸び、物の芯を付くような真っ直ぐな目と長い睫は凛々しさを醸しだしている。その神秘さと毅然さを併せ持つ姿に、一介の高校生若きが関わってはいけないのではないかと思わされた。
要約すると、彼女はとても美しかった。もしかするとこの幻想的な空間とシチュエーションがそう錯覚させているのかもしれないが、でも間違いなく綺麗だと、オレはそう思った。この瞬間を切り取った絵は美術の教科書に載っている絵よりもよっぽど価値があるのではないだろうか。
しかし、オレには幻想的な体験を楽しんでいる時間がなくなった。彼女とオレは気付いてしまったのだ。この階段が我々の教室がある廊下に通じていないことを。彼女は階段を上り終えると目の前の扉を開けようと試みた。しかしその試みは失敗に終わったようだ。
彼女は階段を引き返してきた。咄嗟にオレも引き返す。彼女に気付かれないように、そして、追いつかれないように駆け足の潜み足バージョンで階段を急降下した。
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