さんぽ
三ヶ月検診、百日参りも終え、優乃の首も据わってきた。そろそろベビーカーで散歩出来そうかな? もう六月も半ば。梅雨入りはまだだけど暑くなってきている。汗をかく練習も始めないと。
私は、優乃の顔見せがてら実家に帰り、周や円が使っていたベビーカーを引っ張り出す。ベビーカーは案外使う期間が短いけど、こうして再利用できる。
このベビーカーは三輪だけど、車輪が大きいから軽く押せて小回りもきく。そして足踏み式のパーキングブレーキとは別に、取っ手にも制動用のブレーキが付いていて便利なのだ。
帰宅して、早速外出準備。替えのおむつにウエットティッシュ、オムツ交換用のシート、消毒用アルコール。あ、着替えに虫除けに日焼け止め……。案外、準備するものが多い。
翌日は生憎の曇り空。朝は晴れていたけど。
でも曇っている方が、日差しが和らぐからいいよね。まずは短時間のお散歩から。
改めて近所を歩く。地図は大体頭に入っているけど、外出は買い物が中心で、そのときは大抵自動車だった。歩いて回ったことはほとんど無い。
曇り空とは言え、夏至をひかえた日差しは強い。陰と日向の境界ははっきりしないけど、明るくなると優乃も目を細める。ベビーカーのひさしを展ばした。
ここまで人通りはほとんど無かったが、前から老夫婦が来る。私は挨拶する。
「あら、可愛い赤ちゃんとベビーシッターさん」
お婆ちゃんはニコニコ笑いながら優乃の顔を覗き込む。優乃はあまり人見知りをしないのか、キャッキャと声を上げて笑う。なかなか愛想が良い。
「あはは。私がお母さんですよ」
そう言うと、お婆ちゃんは目を丸くするが、お祖父ちゃんは「すると、高橋さんとこのお嫁さんって」と、私の方を見る。
「はい。高橋 昌と申します。こちらは娘の優乃。
今後とも宜しくお願いします」
頭を下げると、お祖父ちゃんは「噂通りどころか、こんな別嬪さんだとは思わなかった」と。
普通は女性の方が耳敏いものだけどと思いながら、お礼がてら訊くと、私は碁会所で有名らしい。多分、挨拶回りで会ったどなたかが、碁会所の会員なのだろう。
ブラブラと町を歩く。
あ、公園だ。知識としては知っていたけど、車で通る所じゃない。私は公園に入ってみた。
公園は最近には珍しく、ブランコや滑り台といった遊具、そして砂場がある。砂場はお猫様のトイレになっているかも知れないから、ちょっと遊ばせられないけど。実家にまだキネティックサンドがあっただろうか?
一歳半ぐらいの男の子を遊ばせているお母さんがいる。
「おはようございます」
私は挨拶をした。
「おはようございます」
相手も挨拶を返す。でも、こんなとき、何を話せばいいんだろう。
世代も背景も違うし……、やっぱり共通する話題は子どものことだろうか。いや、まずは自己紹介だ。
「初めまして、高橋 昌と申します。よろしく」
「あ、初めまして。山下 梓と、いい、ます……」
うーん。このママは人見知りなのかな?
「優乃も、ごあいさつできるかなー」
声をかけると、意味が判るのか判らないのか――多分分からないだろうけど――満面の笑顔で「あきゃー、あーお」と、なにか発声する。それを見た男の子はニコニコ笑いながら歩いてくる。
男の子は私と優乃に、満面の笑みで「んーちゃー」と言う。多分、「こんにちは」を頑張っているのだろう。私もしゃがんで「こんにちは、挨拶出来て偉いねぇ」と声をかけると嬉しそうだ。
お母さんの方も、自分より子どもが褒められて嬉しそう。
少し打ち解けたところで、私のことを『高橋さんの奥さん?』と訊いてくる。私ってそんなに有名なのか? と考えながら「はい、そうです」と応えた。
その後少し会話をすると、この辺のママ友では大きく二つの派閥があるらしい。山下さんはいずれの派閥にも属していない。
良く言えば等距離外交だけど、露骨に言えば双方から受け容れられていない。その両方からの断片的な情報をつなぎ合わせると、私を派閥に入れるかどうか、いずれもで揉めているらしい。
しょーもない。
高橋家は、まぁこの市では名士だ。ママの旦那さんが仕事上の関係者ということもあるから、無碍には出来ない。
その一方で『そういう立ち場』にある十代の少女――もう二十歳だけど――には、素直に接することも難しい。
晩婚の奥さんになると話は違うのだけど、三十前ぐらいの奥様方が一番面倒くさいらしい。
確かにそうだろう。
三十代半ば以上のママは大抵フルタイムで働いていて、それなりに社会経験もある。でも、二十代で結婚して寿退社した奥様は、働く痛みや理不尽さをあまり知らない。
社会経験の幅や、自身をブランドに出来るか夫をブランドにせざるを得ないか、この差は大きい。
こういう閉じた世界では、高橋家ブランドと私の容姿は、自身で勝負しない人にとって大きいのかもしれない。
以前の私なら、くだらないと切り捨てた話だけど、今の私はそうもいかない。ここに来て中学生並みの人間模様に巻き込まれるとは思わなかった。
それぞれのボスママである米田さんと近藤さんには、それなりの対応が必要らしい。って、『それなりの対応』って、何だろう?
とりあえずは、貴重な情報だ。
上手く使えるかどうかは自信無いけれども、この町内は仮住まいで、秋口には出て行く予定だ。あまり考える必要も無いだろう。
そう思いながらも、話を聞く。
山下さんによると、公園はカジュアルなパンツルックで、できればお安い服で行くこと。逆に、児童館はきちんとした服で行くこと、特に初めて児童館に行くときは、名札をつけていった方が良いと忠告された。
「カジュアルはいいとして、名札って、ルール?」
「そういうわけじゃ無いけど、そういうことになってるって……」
うわー。めんどくさっ。
多分、山下さんは外から嫁いできて、割と早く子どもが出来て、横の繋がりを作る前に出て『失敗』したのだろう。だから、私にそういう忠告をしてくれたに違いない。そういう意味では、いい人なんだろうと思う。
妊娠、出産、授乳の時期は、半ば引きこもりみたいな状態になるし、それぞれストレスがたまりやすい状況だ。だから、こういう形でストレスを他にぶつける人もいるのだろうけど……。
私の場合は、沙耶香さんがしょっちゅう顔を出すし、お義姉さんも夕食をたかりに来る体裁で、いろいろと気にかけてくれる。その意味では幸せだ。
でも、違う土地で、核家族で……となると、そういう気持ちを外に出さざるを得ない人もいるのだろう。
優乃がそろそろ眠くなってきた様子なので、今日はここまで。
私は「貴重な情報をありがとうございます」と、連絡先を交換し、帰宅することにした。
でも、憂鬱な話だなぁ。
そういうローカルルールや派閥の発生を『中学生並み』と切り捨てる私は、女性としてまだまだなのだろうか?