今日も、また一人。
今日も、裏びれた宿の辻を折れた一人の男が、ふ、と唐突に姿を消す。
男が消えた辺りにある外壁のひび割れの中に、それ以上穢れもせず、また輝きを取り戻すでもない星蒼玉が一つ転がっていた。
―――今日も、愚者が一人。
「人の世のあるかぎり、減るもんじゃないからねぇ」
影法師の呟きに、今日も番台に座るホツマが艶然と笑みを浮かべて答えた。
「お前さんはいつまでも消えないけど、飽かないかい?」
ホツマに従い幾十年。
―――飽くことなどございませぬ。
影法師は答える。
―――世になべて事のなきよう、お務めになられますお方様を目にする度。修験の意味と救いの在りようを学ぶ我が身にございますれば。
「いつまで経ってもお堅い事だねぇ。それにあたしは大層なもんじゃない。ただの呪詛喰らいだ。世を乱す巨悪の相手は、面倒くさいしねぇ」
ホツマはくつくつと喉を鳴らし、今日も現れた客の相手をする。
人の欲を満たすのに、これほど手っ取り早い仕事はない、とホツマは言う。
腹を、眠りを、性を、とホツマは言うが、未だ彼女を抱く事を望む者は、見たことがない。
ホツマの座る番台の中には、古ぼけた一両小判が、いつまで経っても使われないままに転がっている。
それは、呪いを払って貰った対価に、影法師が支払ったものだ。
あの小判が使われた時、影法師はホツマの元を離れる事になるのだろう、と思っている。
―――求道とは、果てなきものなり。
小判を見ながら、人知れず影法師は呟いた。
彼がホツマに至る道程は、未だ迷いの霧の中にある。
人知れずホツマに従う、影法師が、幾多の年月を経て、彼が奇門遁甲に呑んだ愚者は数知れず。
その地獄にさ迷う愚者の前に稀に姿を見せる彼の側には、今、美しい童子と荘厳な猿の瑞獣が在る。
彼は愚者に問う。
―――悟りとはいかなるものぞ?
密やかにホツマに害を成そうとした者達は、心根正す気配もなく、ただ『救いを』と影法師に懇願する。
問い掛けの意味に真摯に応じる者には、正しき門が顔を見せるよう、新たな奇門遁甲は編まれているというのに。
己を救わんと悟りに想いを馳せる者は居らず、影法師の呑んだ相手は未だ誰一人、正しき道を悟る事なく彷徨い続けている。
―――そして今日も、また一人。