愚者のままに
彼は、忘れていた。
永き放浪の中で、自身が、かつて解脱した修験者の影たる存在であった事を。
解脱を望み、終に解脱者となった理想高き者が最後に打ち捨てたのは、己自身であったその魂……解脱者の影法師だった事を。
解脱者が人の欲を全て捨て去る方法はただ一つ、その魂までもを捨て去る事しかなかったが故に。
「嬰児も、また美猴も」
ホツマは薄く重ねるように、言葉を紡ぐ。
「どちらともに善財童子、斉天大聖というそれぞれに誇り高き瑞獣を生む種となる『心の在り様』だ。それを捨てて、育てもせずに、至った高み……そこに、一体何があると思うんだい?」
二つの煩悩が消え果てた虚冥の場には、吉の門はなく、ただ中庸である景門と、凶に類する苦しみの門のみがあった。
「最後にはあんたという魂まで打ち捨てて、仏になる。人ではなくなった事で、生死の苦しみからは逃れられるだろうさ。死の苦しみから肉体を捨て去る事で逃れ、生の苦しみを感じる魂をも捨て去って、己を鑑みる事もない永劫無私の存在と化す事。それが解脱の真実さ」
まるでそれが、見てきた真実であるかのように、ホツマは語る。
「目的以外の何もかもを考えない奴にとって、不老不死もまるっきり苦じゃないだろうからね。……だがそれは、本当に『救いを得た己』であると言えるのかい?」
己の理想だけに邁進し、終にはその目的の為だけに生きる。
「より高みへ。その志は尊いさ。でも、その為に何もかもをを捨てちゃあ、いけないよ。……人はね、お前さん。悩み苦しむから人なのさ。だからこそ、幸福にある己も知る事が出来る。仏なんてのは、決して人の在るべき姿じゃ、ないのさ」
ホツマは、仏の在り方を否定する。
「真の救いは、悩みと苦しみの果てにあるんじゃない。悩み、苦しみの内にある自分自身を『ただ在る』者として認め、受け入れる心構えを持つ事さ。それを説いたのが、北に枕した者なんだよ。……さぁ、自分の過ちを認め、やり直す事だ」
ホツマは、懐から取り出した煙草葉を煙管に詰めると、あろう事か饕餮の吐き戻した三昧真火の一欠片で煙を立てた。
ふ、と吐いた煙が、奇門遁甲の陣に干渉し、凶の扉を消滅させる。
ホツマには、最初から、影法師によって定められた道に従う必要などなかったのだ。
残った門は景門と、北北東、北北西の扉。
三門に、ホツマがさらにを吐き掛けると、それらは真実の姿を現した。
景門は、穢れた姿となり。
彼の魂が座す北北東の門は、清廉な輝きを持つ三魂の門として。
彼の魄が座す北北西の門は、穢れかけた七魄の門として。
寿命から逃れる為に自身に施した封じの結界……それが本来の奇門遁甲の陣であった。
彼の封じられた星蒼玉の穢れ方そのままに、対応する門はそこにあった。
「お前さんに、愚者の救いを与えよう。だが、あたしに期待はしちゃいけない。お前さんを打ち捨てた『仏としてのお前さん』じゃなく、『悩み苦しむ愚者』であるお前さん自身が、自分を救うんだ。愚者は愚者のままに、救われな。全てを捨てた先にある解脱の救いでなく、全てを喰らった先にある愚者の救いを、今再び求めるといい」
ホツマが、手にした煙管で逆九字を切る。
「檮杌・窮奇・渾沌・饕餮・閻魔・羅刹・大黒・修羅・夜叉」
煙によって描かれた逆九字は黒く染まって宙に留まり、最後にホツマは、それを叩くように煙管を振る。
「―――空繰魔破」
パキン、と澄んだ音を立てて逆九字が砕けると同時に、分かたれていた肉体・三魂・七魄が一つと成った。
そうして影法師は、ホツマの前に立つ。
影法師は、陰のモノではない。
人を害する事もなく、ただ修験の道に生き、清濁問わずに呑んだだけ。
その結果捨て去られた全てが、今再び一つになった。
「忘れない事だ。―――あたしが救うんじゃない。お前さんが、お前さんを救うんだ。あたしはただ、喰らうだけだからね」
星蒼玉を用いた結界に自身を封じ込めた結果。
かつて影法師自身であった解脱者は永遠を得たが、人の魂を秘めた星蒼玉は、彼が捨て去った欲に徐々に染まり、穢れ始めた。
修験者に捨てられた影法師ではあったが、その魂ごとただ虚冥に呑まれる事を良しとする事は出来なかったのだ。
だから求めた。
己の奇門遁甲を破り、虚冥へと還る前に影法師を殺し、輪廻へと引き戻してくれる存在を。
ホツマの噂を聞いて向かった先で目にした彼女は、正しく己の目指した存在であった。
陰陽そのものであるかの如き、俗世に在りながら解脱しているかの如きその在りように、彼は魅せられた。
―――かの者、菩薩なり。
呪いとしてその身の内に呑まれるのなら、虚冥と化す事も本望。
そう思い、彼女に挑んだのだ。
彼女が過ちと断じた影法師の選択は、最後の最後に、間違っていなかった。
ホツマは、影法師に望外の導きをくれたのだから。
「今度は大切に育てな。嬰児を。美猴を。捨てたものを少しずつ拾い集めて、より浅ましい愚者としてのお前に戻ると良いよ。そうして美しい瑞獣を己の中に育て上げた時、お前さんはきっと、救われるだろうさ」
そう言って、ホツマは饕餮を影法師にけしかけた。
腹に呑まれた影法師は、蠢く闇に徐々に徐々に、呑まれて行き……
気がつけば、ホツマの後ろに立っていた。
それを不思議に思った影法師に、ホツマは振り向いて笑みを見せる。
「アタシの影として、お前を呑んだ。未だ修験の者として求道の永劫に生きる事を望むなら、そのまま在りな。死を望むなら、魂は虚冥に呑まれる。輪廻も解脱も、お前さんにはないが、思うままにするといい。あたしはただの呪詛喰らいだ。世の理を乱さないなら、アタシはお前が在る事を決して否定はしない」
影法師の封印が解かれた事で、奇門遁甲そのものが消えていく。
「だが、世の大ごとに干渉するのなら、お前はアタシの敵だ。―――世はなべて事もなし、がアタシの理想さ。だからお前さんも、ただ観るだけの存在で在り続けな。お前さんはもう、あたしの影法師なんだからね」
それは、影法師の理想とする在り方そのものだった。
彼女は真に菩薩なのだと、影法師は思う。
ただ一つだけ、ホツマの影となった影法師は望んだ。
―――貴女の敵を排する事だけは、お許し下されますか。
そう彼が問い掛けるのに、ホツマは頷いた。
「お前は、アタシの化身だ。だが、救わない者の化身である者は、またこれも救わぬ存在でありな。でも、殺しは許さないよ。いつまで惑わすかは自由にすると良いけどね」
―――御意。
その許しをもって、影法師は真に影法師であるかのように地面に沈み、ホツマと共に現世へと還った。