影法師
その日彼の訪れた裏びれた宿の番台には、煙管を吹かす女性の姿があった。
信じられないくらい美しいのに見すぼらしい男装をした女性は、彼に目を向けて口を開く。
「いらっしゃい」
彼女の気怠げな歓迎の言葉に、彼は一つ頷いた。
彼は、影法師、という名を持つ。
ただ己が解脱の高みに至るよう修験の道を歩き続けた彼は、山で出会う者たちにいつしかそう呼ばれるようになっていた。
「―――ここで飯を食うなら十五文」
不意に、女性がぞくりとするような笑みを浮かべて言う。
「寝床が欲しけりゃ一朱」
彼女が指差す先には十畳部屋。
「春を買うなら一分」
次に指を向けたのは、番台の奥にある自室らしき部屋。
「もし、呪いを売りに来たなら一両だ」
最後に、何もかも見透かすように男に目を向けながら、女は言った。
「どれをお求めだい?」
女性の言葉に彼は声を小揺るがせもせずに、ただ一言だけ返した。
―――その命を貰い受けたい、と。
彼の言葉と同時に。
ぐわん、と空間が揺らぎ、周囲が酷く冷え始める。
入る前に周囲に配した星蒼玉は、穢れたものが八つ、穢れかけたものが一つ、穢れなきものが一つ、の計十個。
彼女の招きに彼は答え、影法師自身の先の一言をもって、陣の構築は成された。
―――虚言結界・奇門遁甲の陣。
虚言術とは惑わしの言葉、人を誘う甘美と恐怖を煽る。
快楽を餌に虚冥へ誘う手法、『夢おくり』と根本を同じくする術。
結界術とは現世と断絶し、彼方と此方を仕分けるもの。
封ずるという意味において、神魔の領域と近しき場を織り成す術。
修験の果てに清濁併せ呑んだ影法師は、その腕を以て、実虚の技を扱う。
彼方のものを此方へと誘うのではなく、此方を彼方へと誘う技を。
果てなき惑いと唯一の救いを持つ果てなき迷路へと。
人を惑わす結界の内に虚冥へと繋がる門を作り出し、人をその肉体ごと虚冥へと誘う。
「……やれやれ」
女性は呟いた。
「命は、売り物にないんだけどねぇ」
言葉と共に、ふ、と女性が煙を吐き、黒い粉となって散った煙が結界へ干渉する。
惑いの九門のみを現した筈の影法師の術に、隠した筈の門が加わり、正当なる奇門遁甲を描き出す。
影法師は、その腕前に驚愕する。
そして同時に悟る。
やはりこの女性こそが、彼の望む結末をもたらしてくれる存在だと。
「あたしはホツマ。愚者には愚者の救いを。虚ろには在るべき場所をくれてやるのが、あたしの役割さね」
その声は暗くおぞましい響きを帯びて、影法師の耳に響いた。
「あたしは全てを拒まず貪るだけの、ただの、呪詛喰いだ。何も期待しちゃいけないよ」
冷気として現れた虚冥の気配が、結界の中だけに収束していく。
……そしてホツマと影法師は、揺らめくように奇門遁甲の内に消えた。