屋敷の穢れ
「ここがあんたの家かい? こりゃ確かに、並大抵の封魔士じゃどうしようもないね。よく生きてたもんだ」
男が寝ぐらにしていたのは、元は武家屋敷だった場所の外れにある納屋だった。
どこか暗く陰鬱な気配の正体を、男は知っていた。
仕事の時に幾度か見たことのある、呪詛の気配だ。
「随分と強い呪詛だ。呪術士だけの力じゃない……情念が強すぎて、あんたまで取り込まなきゃ他で使えなかったってところかね」
言いながら、ホツマは無造作に納屋に近づくと、建物の向こうへ回り込んだ。
男は、自分が呪詛の気配を感じた瞬間に逃げ出した事が幸いしたのだろう、と自分自身で思っていた。
体調こそ思わしくないものの、無理さえしなければ動ける程度の不調である。
「あったよ」
ホツマが回り込んだのと反対側から出てくると、その手には濁った色合いの玉が握られていた。
こちらも、一度見た事がある。
『星蒼玉』と呼ばれる、呪詛や結界に使われるという呪具だと、男は認識していた。
「理を乱すのは勝手だけど、どうしてどいつもこいつも、もうちょっと上手い事やれないのかね。人を呪わば穴二つとは言うけど、自分から落ちる覚悟もないからこういう事になるんだけどねぇ」
女は玉を握ったまま、今度は母屋だった武家屋敷へと向かった。
「随分臭うね。あんたが原因かい?」
母屋に近付くと、すん、とホツマが鼻から息を吸い、男を見る。
男は答えなかった。
だが、男の鼻も、朽ちた建物の匂いに混じって腐臭が漂っているのを感じていた。
「まぁ、どうでも良いけどね」
ホツマは武家屋敷の前に立つと、手招きを始めた。
糸を手に絡めるような、彼女の態度とは裏腹に繊細な動きだ。
「あんまり、無闇に陰の理を撒き散らさないでおくれ。恨みは分かるが、塞の神だって疲れるんだ。迷惑を掛けるもんじゃないよ」
誰に語りかけているのか、優しげな声音で言いながら手繰る手は一定に保ち、ホツマは見覚えのない動きをする刀九字を空いた手で斬る。
「檮杌・窮奇・渾沌・饕餮・閻魔・羅刹・大黒・修羅・夜叉」
最後に二本指を絡ませた印を結び、ホツマは最後に裂帛の声を放つ。
「繰糸!」
ピィン、と空気が張り詰めるような幻聴が聞こえ、女は指先に糸が繋がっているように、ゆっくりと前後に動かし始めた。
まるで、釣りをしているようだ、と男は思う。
「さ、情念はこれで一方へ向いた。納屋に戻るよ」
ホツマは言い、今度はゆっくりとした歩みで指を揺らしながら納屋に戻る。
玉と念、それらがどのようなものかは分からないが、男は近くにそれを感じる事で自分の体がさらに重くなっていくような気がしていた。
ホツマにそれを訴えるが、彼女は微笑んだままばっさりと言う。
「我慢しな。死にゃしない」
遂に納屋についた彼女は、今度は男を納屋の中に促して自分も入ると、水瓶に目を止めてその口に糸を巻きつけるように指を沿わせる。
そして中身が半分ほど残った瓶を埃っぽい納屋の中央に、底を転がしながら移動した。
何気なく男が覗き込んだ瓶の中身の水は、意思を持つように蠢いて、闇の中であるかのように真っ黒に染まっている。
慌てて目をそらす男に、ホツマが喉を鳴らした。
「そう怯えなさんな。一度は肌を重ねた相手だろうに、あんたがそんな調子じゃあ、そら女も報われないだろうよ」
納屋の中には、男の私物以外に女物の着物や支度道具も揃っている。
部屋を見て、腐臭を感じ、ホツマは男に恨みを持つ相手が誰なのかを知ったのだろう。
妖艶で見すぼらしい格好をした宿の女主人は、水瓶をあやすように一度撫でると、男に向き直った。
「あたしを隔てて、瓶の前に座りな。……女はなぜ死んだ? 殺めたのかい?」
男は首を横に振った。
長仕事に出て帰ったら、出る前に体調が悪かった女は死んでいた。
葬いをしようにも、親類は知らず、寺社には行けない。
男は無縁仏としようかと思ったが、女は腐れかけており、負ぶるには躊躇われ、かと言って引きずる様を誰かに見られるわけにもいかなかった。
その結果が、これだ。
「側にいて欲しかったんだねぇ。健気じゃないか。これが恨みでなく未練なら、まだやりようもあったろうに……誰かに誘導されたのかねぇ」
ホツマは部屋の女の私物をかき回し、一つの簪を手に取った。
それにも、濁った『星蒼玉』がついている。
「女の死は、これが原因だね。送った記憶はあるかい?」
男は、また首を横に振った。
玉は高価なものだ。
男では手が出ない上に、彼は女に贈り物をした記憶などない。
「もしかしたら、あんたの長仕事自体も、仕組まれたのかもね」
ホツマは、水瓶を挟んで男の対面に立った。
「やるよ。恐けりゃ目を閉じていな」
彼女は水瓶に玉と簪を放り込み、再び逆九字を切る。
「檮杌・窮奇・渾沌・饕餮・閻魔・羅刹・大黒・修羅・夜叉。―――虚実顕現」