プロローグ
アスフィア王国第一公爵マセル家。建国以来の忠臣と言われ、王からの信頼篤く様々な英傑を輩出してきた名門の家柄である。その有能ぶりは王国の危機を何度も救い、戦が起こればマセル将軍が敵をなぎ倒し、治世においてはマセル大臣が書類を捌き切る。
それでいて決して驕ることなく極めて温厚、智謀は曇らずさらに公明正大と、まさに選ばれた家系ともいえるだろう。とにかくすごい家系であった。
しかし、そんな異常ともいえるほどのマセル家にもただ一つだけ。誰にも知られてはいけない秘密があった――――
マセル家王都邸。
兵士が守る玄関を抜けると、絢爛豪華な装飾が施された大広間が姿を表す。そこを過ぎると、ずらりと扉が並ぶ廊下へ出る。窓にはステンドグラスが色鮮やかに輝き、真紅の絨毯を染め上げていた。
そこへ、パタパタと駆ける音が聞こえてきた。
「シア! どこにいるのよ!」
可憐な声が廊下に響く。声の主は十代前半ぐらいの少女。
彼女の名前はジュリア=オルディン=マセル。見るものに満月を思わせるようなきらびやかに輝く黄金の御髪に煌々と光る緋色の瞳。唇から少し八重歯がのぞく彼女こそ、この国が誇る公爵家マセル公の令嬢である。
今、彼女はある人物を探していた。
その名前を先ほどから呼んでいるのだが一向に姿を現さない。もう一度、彼女は大きく名前を呼んだ。
「シア!」
「御用でしょうかお嬢様」
突如として黒い執事服を身に纏った少年が姿を現した。彼がジュリアの探していた人物、シアである。
ちなみに姿を現したのではなく、相当な速度で駆けてきたのだが、その速さは目でとらえられるものではない。化け物じみた身体能力だ。
ジュリアは今まで出てこなかったシアを責めるわけでもなく、少し心配そうに眉をひそめていた。
「珍しいわね。貴方が呼ばれてから出てくるなんて」
「申し訳ございません。修行不足なもので、今日の仕事に手を煩わせておりました」
「いや……お父様の依頼を一日でこなすあたり、ちょっと怖いんだけど……」
「お嬢様を待たせてしまうようであれば従者失格でございます故」
「なんでそんな自分に厳しいのよ……」
ジュリアの質問に対し、献身というには行き過ぎているようなシアのセリフが返ってくる。
やれやれと言わんばかりにジュリアはため息をついた。この少年とは長い付き合いになるが、いつまでたってもこの癖は治らない。職業病、というには深刻な気がするので、ジュリアとしては早く矯正してもらいたいのだが。苦笑いしながら彼女はそんなことを考えていた。
一息ついて、シアを呼んだ用件を思い出す。
顔を紅潮させ、ジュリアは遠慮がちに口を開いた。
「今は時間が空いてるのよ……ね?」
「はい」
「それじゃあ、その……」
最後のほうは小さくてよく聞き取れない。ジュリアは非常に言いにくそうにしている、それだけで言いたいことを察するシア。
ジュリアが言い淀んでいる間に、ボタンを外す。ジュリアは無言でうなずき、そっとシアの肩に手をかける。
そのまま顔を寄せて――――
シアの首にかみついた。
ジュリアひいてはマセルの家系は、吸血鬼だったのだ。
* * * * * *
一般に吸血鬼は非常に力が強く、肉体性能、という点で人間を遥かに凌駕している。
だが、いくら超人的な能力を誇る吸血鬼といえど、何日かに一度は血を吸わねば力どころか生命が危うい。
ジュリアがシアに噛みついたのも吸血のためであり、今もシアから大量に血液が抜かれている。同時に、血中魔力がジュリアへと流れていき、彼女の魔力へと変質する。
しばらくして、ゆっくりと彼女の牙が引き抜かれた。シアの首には小さな傷がついただけで、血が流出している様子はない。
ジュリアは上品に口の端をぬぐいながら、心配そうに眉をひそめていた。
「……どうしたのよ、今日……」
「? いつも通りだと思いますが?」
ジュリアが深刻そうに問いただしても、シアは何を言われたのかわからないようだ。何事もなかったようにたたずんでいる。
だが、そういわれてもジュリアは安心できないのだ。
彼女はある程度、シアの体調を吸血によって知ることができる。仮に医学を習得していればさらに詳しくわかるだろうが。
今日のシアは非常に血の濃度が薄く、魔力が足りていなかった。極度の疲労によるものだろう。
本人が違和感を感じないというなら問題はないのだが、困ったことにこの少年は本心を滅多に述べないのだ。それが心配でジュリアは命令を下した。
「それじゃあ、今晩はずっと私と一緒に居なさい。いくらなんでもあの血の薄さで問題がないわけないでしょう? 貴方に倒れられるとどうしようもないから、様子を見させてもらうわ」
「はい」
「貴方は私の執事だから」
最後にそう言って、ジュリアは元いた部屋へと戻っていく。今日は軽く出歩こうと考えていたのだが、シアのことを考えると、自分も大人しくしていた方がいいだろう。淡い期待を込めているのは内緒だ。
そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、シアは軽く身だしなみを整えると、後をついていく。几帳面にも、ジュリアの左後ろを二歩ほど下がりながらだ。
誰が見ているわけでもないのに、そんなくだらないことを律儀にも守り続けているシアを見て、ジュリアは少しもどかしい気持ちに襲われた。
ふと、些細ないたずらを思いつく。
バレないように小さく笑うと、すぐに後ろを振り向き、シアの腕をつかむ。
「!?」
珍しく驚いた表情を見せるシア。先手は取れた。ジュリアはそのまま強く引き寄せる。バランスを崩したシアの首を狙って、先ほどのように口を開く。
「んむ……」
「―――――ッ!!??」
牙は立てずに、軽く甘噛みをするだけにとどめる。
途端にシアの顔が真っ赤に染まった。こっそり顔を窺うと、慌てて目を閉じるところが見えた。
悪戯成功。
ジュリアは心の中で小さくガッツポーズすると、シアを開放する。
そして茶目っ気たっぷりにこう告げた。
「ふふっ。今のは私を心配させた分だからねっ」
「……。以後……きをつけます」
あまりの出来事に、シアはそう返すだけで精一杯だった。
それではお読みいただきありがとうございました。