表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
靴を履いて旅に出て、鞄に荷物を詰め込んで  作者: 実里晶
靴を履いて旅に出て、鞄に荷物を詰め込んで
82/238

第82話 真夜中の秘密 -7△

 狼は夜魔術師を降ろすと、じきに闇に溶けこんで見えなくなった。

 夜魔術師は冒険者ギルドの前から教会の方角へと足を引きずって行った。

 裏口から出て来た少女は夜魔術師の姿を見咎め、足を止めた。

 足をけがした誰かが助けを求めているように見えたのだろう。

 でもその姿が近づき、つい今しがた血を啜ったかのような赤い唇が醜く歪んでいるのに気がつくと、それが思い違いだと勘づいたらしかった。


「どこかで見かけた覚えがある気がする子だこと……」


 夜魔術師が手をはらう仕種をすると、生ぬるい風が少女が頭からかぶっていたストールをさらって行った。

 現れたのは頭のてっぺんから髪の毛にまじって生えた白い羽毛である。


「お願いがあります。どうか、後ろの人々と、この子だけは見過ごしてやってください。幼子と老人なのです。何をするにしても自分ひとりだけにしてくださいませ」


 シマハは毅然と申し出た。


「いいでしょう、子どもには、とくに用はない。あなたがちょうどいいわ」


 幼心にシマハが何か危険なことをしようとしていると察したのだろう。

 コナは必死にスカートにしがみついていたが、思いのほか強い力で引きはがされてしまった。


「行きなさい。神殿に行くの。着いたら、助けを呼んでちょうだい」


 強い口調で諭され、コナは蒼白な顔つきでうなずいた。


 神殿は街の南側で行って戻ってくるまでには相当な時間がかかる。


 シマハも、この夜をヴァローナと過ごしていなければ、ギルド街のある北側には近づいてもいなかっただろう。

 もちろん、そのことを恨んでいるわけではない。

 むしろ自分がいてよかったと思う。

 魔法使いたちは一人残らず街の人たちを助けに向かってしまった。だから、自分がいなければコナはひとりぼっちだった。同じ境遇の彼女が傷つくところだけは見たくなかった。

 シマハは、身をすくめながらも夜魔術師とまっすぐに向き合った。


「勇気があるのね。ぜひとも、その勇気を挫く術を教えて貰いたいわ。恐ろしくはないのかしら」

「恐ろしいです。でも、お友達が傷つくところは絶対に見たくないのです」

「自分の命と引き換えでもかしら。この先に死ぬより恐ろしいことが待ち構えているのよ。あなたは勇敢な冒険者なのか、それとも、命が二つあるとでも思ってるのかしらね」

「いいえ、ひとつきりです。ただの仕立て屋です、ご婦人。けれど……もしも命を惜しんであの子を死なせてしまったら、それこそ明日の朝日も見たくないと思うでしょう。美しいものを見ても何も感じないでしょうし、どこにも行きたくはないし、何も食べたくなくなると思うのです。そんなふうになるのはいやですから」

「もしもあの子が、邪悪な心の持ち主でもそんなふうに思うの?」

「……え?」


 訊ねておきながら、夜魔術師は皮肉げな笑みを浮かべて首を横に振った。

 もう取り返しがつかないのだとでもいうように。

 シマハには一瞬ではあるが、目の前の女が、ただのか細い女のように見えた。

 あかりもない漆黒の闇のなかで、ただ恐れて震えている女のように。


「罪なき娘の亡骸をみれば、さしもの冒険者たちの士気も消え入るだろう」


 女の指がシマハに向けられる。

 濃い闇が漂っているのを感じ少女は身を固く縮こまらせた。細い指は胸に抱いた《針入れ》を握りしめている。


 しかし、ベロウはいつまでも言葉にしたことを果たすことはなかった。

 そして、その指をさっと引きもどした。

 ゆっくりとした動作ではるか頭上を見上げると、羽音がばさり、と振ってきた。

 闇のなかを素早くはばたいて来た飛翔体が、くるり、と反転して、背中の荷物を落としていく。

 それは小型の竜で、背には鞍が取り付けられ、若い女が手綱を握っていた。

 彼女は《飼育者テイマー》のミリヤ・フロウであったが、それはベロウの知るところではない。闇色の眼差しは、空からふってきた落とし物へと注がれていた。

 それはマントをかぶった少年だった。

 フードを取ると、薄氷色の瞳が現れる。

 そしてくしゃみをひとつして「やっぱり、空を行くのは風が問題だ」とか、呑気そうにぼやいた。


 この状況で、そういうことを口にできるのはこの街にただひとりしかいない。


 メルだ。


 メルは笑っているような、そうでもないような、とにかくあまり緊張していない様子で、額にできた小さな傷を痒そうに撫でていた。


「七英雄の魂は、たしかに抜き取ったはずなのに……」

「どうしてか、わからないって? まあ、ぼく自身も、ぼくのことがわかってるわけじゃないから無理もないけどさ」


 そう言って、凍りついたままのシマハに目配せした。


「さ、神殿でみんなと合流するといい。もう彼女はきみたちには手出ししないと思うし、じきに誰かここにも来るだろう」


 頭上を旋回していた翼竜がシマハの隣にゆっくりと降りて来る。

 ミリヤがシマハを乗せ、腰帯でその体を固定し、再び飛び立った。

 メルが言った通りベロウはふたりに手出しはせずに、行かせた。


「――――久しぶりだね、神殿で会ったとき以来だ」

「そうだね、メル……会いたかったよ」

「ベロウっていうんだってね。すごくよく似てる。でも、きみは……アラリドじゃないね」


 女の表情に驚愕が浮かぶ。


「どうして」と喘ぐように問いかける。「どうしてそんなことを言うの? あなたも、ヨカテルも」


「じゃあ、ヨカテルも気がついたんだね。いや、うーん……」


 メルは困った顔を浮かべている。


「確信があるわけじゃないんだ。ヨカテルが言うなら、彼は証拠をつかんだのだと思うけど。ぼくはただ、そう思うだけ……。君はアラリドじゃないよ、だって、アラリドはこんなことしないもの」


 薄氷色の瞳は、あたりに漂い怨嗟の声をあげる亡霊たちをみつめ、哀しげな表情を浮かべた。


「マジョアたちは昔に起こった悲しいことは全部アラリドのせいだって言ってたけど、ぼくにはそうは思えない」

「わたしのせいだよ、メル。わたしがやったんだ。だからあんなことが起きたのよ」

「いいや、ちがうよ。ぼくとアラリドはよく似てるんだ、だからわかる。きみはアラリドじゃない。違う人で、別人で、ただオリヴィニスを混乱に陥れるためだけにそこにいるんだ」


 メルはマントの下で柄に手をやり、刃を抜き放つ。

 濃い闇の中で、刃が白く閃いた。


「わたしに剣を向けるの……? 元を正せば、みんな、お前たちのせいだっていうのに」

「もしもきみがぼくやマジョアだけを狙ったんだとしたら、それは仕方ないことだった。でもほかの人を巻き込むのは、きみの野心だ。ちがうかい?」

「どうするっていうの、七英雄はもう、お前とはともにいないのよ。わたしが奪ったのだもの」


 この夜にたどりつくまでに、メルは戦いのための知識をほとんどなくしていった。

 身軽さも、武器を操る術も、魔術も、何もかも。

 それは七英雄の魂に刻まれた記憶で、知らないうちにベロウに《魂抜き》の技をかけられ、奪われてしまったのだから。


「スパイを入り込ませたの。気がつかないうちに、わたしは貴方に近づいて術をかけてたのよ……」

「もしかして、ロジエのことかな。彼は生きてるの? 殺していたら、容赦しないからね」


 ベロウは生唾を飲み込んだ。

 メルや冒険者ギルドの所属員たちに近づくのに《マジョアの孫》というのはすばらしく都合がよかった。ロジエ自身には、自覚はなかったはずだ。

 ベロウは彼に近づいて、魂を奪った。

 手先が多く潜んでいるミグラテールでなら、ひどく容易いことだ。


 そして、ベロウ自身の体にその魂をうつした。

 奪われたほうは、自覚はなかったはずだ。自分が何者であるか疑いもなく、ベロウをオリヴィニスへと運んでくれたのだ。

 しかし、その方法のすべてをメルが知っているとは思えない。

 ただ街にやってきた新顔のことを警戒していただけに過ぎないと、彼女は自分自身に言い聞かせた。

 七英雄の魂を失い、貧弱な子どものような姿をしたメルにいったい何ができるというのだろう。

 メルはリラックスした姿勢で剣を構えたままだ。


「わたしが恐ろしくはないの」

「ううん、全然」


 夜魔術師は杖を振るい、護衛に連れて来ていた軽戦士の影を呼びだした。

 砂の戦士は軽くフェイントをいれると、まっすぐにメルに向かってくる。

 力任せに薙ぎ払われ、小柄なメルの体は、吹き飛ばされて後ろに転がった。

 英雄といっても体格は戦士とくらべれば華奢だ。

 それでも、これだけの力の差がある。

 回転は教会のそばで止まった。

 メルはすぐに起き上がり、怪我がないことを確認する。


「うーん……自分と戦うのって、なんか変な感じ」


 砂や草を払い、苦笑いを浮かべて立ち上がる。

 そして再び剣を構える。

 七英雄は相変わらず正確無比で、凄まじく素早い身ごなしで超接近戦をしかけてくる。


 何度もするどい剣戟を受け、刃が火花を散らす。


 メルの剣は明らかに生彩を欠いている。

 以前はどこでどんな武器を構えていても、その扱いかたをすっかり理解し、知り尽くした立ち回りだった。でも、今はどこか頼りない。


 その上、敵には確かに敵を切り刻もうとする殺意があった。


 それでもメルは恐れてはいなかった。

 とにかく前に出ようとして踏みこむ。

 二度火花が散り、体のひねりを利用して、戦士の踵がメルの体を剣ごと蹴り上げた。

 軽い少年の体は簡単に宙に浮き、地面に叩きつけられた。

 それでも再び立ち上がる。

 衣服は土で汚れている。薄く切り裂かれた頬や服から血の色が滲んだ。

 それでも。


「よし、段々掴めてきた気がする。もう一回」


 何度も、メルが倒され、痛めつけられるのをベロウは見つめていた。


 その心には複雑な感情が――いや、はっきりとした痛みがあった。

 何度も何度も繰り返し浮かんでは消える、悲しいという感情だ。

 仲間が目の前で痛めつけられているのを、もう見たくはない、という。

 ベロウには理解できない人の心だった。


 攻防は長い時間続いた。

 それとも思いのほか短かっただろうか。

 そんな些細なことすら、感情の痛みに邪魔されてわからなくなるほどだった。


 砂の戦士がナイフを繰り出す瞬間、メルが動いた。

 剣を捨てて、ナイフを持つ腕を相手の上半身に組みついた。

 そのまま、相手の体を引きずるように一歩進む。出来る限り強く踏みこむ。


 影の反対の手が、無防備なメルの背中を刺した。

 メルの表情が痛みに歪むが、踏みこむ力を弱めることはなかった。

 血が流れ落ち、地面を濡らす。


 それでも、英雄の手に引きずりこまれ、地面に倒されても、這いつくばってでも。


 それでも。


 とうとう、ベロウのそばまで来た。

 メルは今にも闇の中に沈んで消えてしまいそうなベロウに向けて、手を差し伸べていた。

 

「アラリド……迎えに来たよ……」


 土で汚れた手にしみひとつない白い掌が重なる。

 それは紛れもなくベロウの掌で、彼女自身が、そうしたことに驚いている様子だった。


 その瞬間、ベロウの体が二つに重なって見えた。


 メルの手が優しく引かれていくと、その重なりはよりはっきりとしたものになる。

 闇に包まれた女夜魔術師から、半透明に透けたもうひとりの《ベロウ》にそっくりな姿が抜け出て、ふたつに別れていく。


 それは一瞬だけベロウのことを振り返り、微笑みかける。

 そして、メルの隣に立った。

 闇色の髪に瞳、そしてカタバミ色のローブを着たひとりの魔術師だった。


 砂の英雄がメルにとどめを刺そうとナイフを振りかぶる。

 しかしその切っ先は、もうひとりのベロウ……いや、長い眠りから目覚めたアラリドの姿の前に突き出されたまま震えていた。


「よく役目を果たしてくれたね。もう眠るといい」


 白い掌が額を撫でる。

 すると従順なしもべのように英雄はその場に膝を突き、頭を垂れた。


「ようやく会えたね、メル」と、夜魔術師は言った。


「ずっと探してたよ、アラリド」

「うん。ごめんね。ぼくが死んだ後、魂は妹に支配されていたんだ。ぼくらはお互いに本当の名前があって、それを知ってるから……でも、もう彼女の元には帰らなくてもいい」


 アラリドは、放心したようすのベロウを見つめながら言う。


「そんな、嫌よ。どうして行っちゃうの。もどってきて」


 ベロウは何度も、呼んだ。

 聞き取れないが、それがアラリドの隠された名前なのだろう。

 けれど、アラリドはそれをそよ風のように受け止め佇んでいるだけだった。


「メル、きみの体を少しだけ貸してもらってもいいかな」

「ヘンな使い方はイヤだよ」

「大丈夫。みんなにお別れをして、この夜を終わらせるだけだから」


 アラリドが無邪気に両手を広げ、小さなメルの体を抱きしめる。

 その腕はメルの体をすり抜けて、何も掴むことはない。

 アラリドはほかの幽霊たちとおなじだ。


 命の尽きた、死者なのだ。


 魂の姿でここにいるだけだからだ。


「ごめんね、メル」


 そのとき、そこにはふたりの人間がいた。

 冒険者ではない。

 呪いもない、魔術師でもない。

 ただ、はるか昔に、時計のはりをぐるぐると何度も回したその向こうで、

 別れの言葉もなく、離れ離れになった友人たちふたりがいた。

 

「ぼくを探してくれてありがとう……」


 その言葉が、メルの聞いたアラリドの言葉の最後になった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ