第67話 魔法
ひどい風邪を引いて、数日寝込んだあとのことだった。
日差しは暖かいのに、寒気でぶるりと震えながらメルは魔術師ギルドを後にした。
抱えているのは調合したての、いわゆる魔女薬だ。魔法薬とちがって複雑な術がかかっているわけではないが、きちんとした薬草の知識を持つ魔術師によって調合された薬は副作用が少なくてかつ効果が高い。
毛糸の帽子と襟巻でモコモコになりながら、帰ろうと思ったときだった。
入り口のすぐそばに少女がうずくまっているのが見えた。強い癖っ毛も、目立つ角も、コナという少女の名前を思い出すのに十分な特徴だった。
「コナ、どうしたの? ……あ、そのままで。いまは近寄らないほうがいい」
コナは途方に暮れた顔で石畳を見つめていたのだが、顔見知りのメルをみつけてますます情けない表情になった。
地面には白墨で魔法陣がひとつ書かれている。
「…………あ、あの。セルタスさまから……留守のあいだに、な、ナターレ様の教えを受けるよう……いわれたのですが…………ずきん、をとられてしまって…………」
「ふーん……」
いつも角を隠しているシマハ特性の頭巾がないのは、そういう理由らしい。ナターレは魔物まじりを嫌うが、こういう姑息なまねはしない。
たぶん、弟子の誰かにやられたのだろう。
「この魔法陣は?」
「まちがいをみつけたら、返してくれるって……でもみつけられなくて……」
典型的な新人いじめだった。メルがみるかぎり、魔法陣に間違いなどない。間違いがない、というのが正解の引っかけ問題なのだが、真面目で優しいコナはきっと間違いがあるはずと思って正解にたどりつけないでいるのだ。
そうこうしているうちにコナの瞳に涙が浮かぶ。
メルは「仕方ないなあ」と言って、落ちていた白墨を拾い上げた。
「それじゃ、授業をはじめようか」
「じゅぎょう?」
「この魔法陣は真魔術と精霊術、どちらのものでしょう」
「…………え、えと」
コナは涙を拭い、真剣に考え、ゆっくりと答えを出す。
「真魔術、です……」
「正解。真魔術も精霊術もどちらも魔法陣を使うけれど、意味は大きく違うよね?」
「は、はい……精霊術では、じゅ、術者が身をまもるためにつかいます……と、おししょうさまが……」
「そう。精霊には世界の規律を乱す力がある。何もないところから炎が出て、空に雲がないのに雨を降らす、それが長く続いたら、人の生活はめちゃくちゃになってしまう。人とは相容れない力なんだ」
メルは白墨を使い、地面に新しい模様や記号を描きこんでいく。
「真魔術は長らく精霊術のまねだと言われていたけれど、それは半分正解で半分間違い。彼らは精霊が世界の規律を書き換えるとき何が起きているかを観察して、人間にも同じことができるように工夫を重ねてきた」
ある意味、人が精霊になりかわろうとするのが真魔術である。
行き着くところはおなじでも、その過程が全くちがう魔術なのだ。
精霊術は自然のもの、真魔術は非自然的なものとされがちだが、正しい解釈は逆である。精霊は自然をいかようにも変化させられるが、真魔術はあくまでもこの世界にすでに存在する自然と規則を再現するだけで、ある意味自然に近い。
ふたつのちがいは魔法陣以外、呪文にも現れる。
精霊術における呪文は精霊を呼び込むための祈りの歌に起源をもつ。師から弟子へとある程度受け継がれるものの、詞は精霊ごとに、術者によって異なる。
対する真魔術にはその自由さはない。観察する事象によって生まれる差異はあれども、基本は同じ魔法陣、同じ呪文を使うことになる。
メルはすらすらとギルドの魔術中級講座で行う内容を述べながら、手を動かしていく。
コナは理解するにはまだ難しい話を不思議そうな顔できいている。
「おわっ、なんだこりゃ!」
ギルドから出て来た冒険者が、足下に広がる模様の絨毯を踏まないよう、慌てて飛び退いた。メルの描いた図像は、最初の魔法陣を囲み、繋ぎ、大きく成長していた。
「あんた、もしかしてメルメル師匠か? 魔術師だって話はきいたことないが」
「魔力が少ないから、仕事では使わないだけさ。おじさんも協力してよ」
男が宝石の無い杖を提げているのを見て、メルは白墨を折って手渡した。
「いいけど、何をするんだい、これ。ひどくでかいな。全体像が見えないぞ」
「足下からカマラダの三角を三つ、グアダニャーレの呪印を等間隔に並べて、サルセルの三段構造の一段目にする」
「ああ……なるほどな、それは理解できる。何をやろうとしているのかはさっぱりわからないが」
男は楽しそうに笑って、言われた通りの図像を描き始める。
カマラダ、グアダニャーレ、サルセルは過去に存在し、魔術となって現代に残った偉大な魔法使いたちの名前である。
真魔術に使われる記号や言語が大陸の内側であれば大体同じであるため、知識さえあれば作業を簡単に共有できるのだ。
一心腐乱に地面に向かうふたりに、ギルドに用があったらしい女魔術師が近寄ってくる。
「ねえ、面白そうなことやってるわね。ここの部分は魔力増幅に使う陣よね。おそろしく大がかりだけど」
「お姉さん、いいところに……」
白墨を渡され、暇だったのか、空いているスペースに続きの魔法陣を書き始めた。
場所が魔術師ギルドの目の前だったせいもあるだろう。同じように何か面白いことをやっているらしいと勘違いをした魔術師たちが、次々に集まってくる。
「誰か、エモニの魔術秘伝の本を持っていないか? 忘れちまった!」
「そこは俺がやるからこっちと交代してくれ」
「ねえちょっと、ここをパソス式にすると魔力の流れが止まって破綻するんじゃないの?」
「それじゃ、最近ミグラテールで考案されたっていう新しい術式を組み込んでみるのはどうかな」
「静かに、ミザリに聞こえたら消されるぞ」
手伝いを得て、魔法陣はあちこちに広がっていく。
石畳を埋め尽くし、ギルドの壁を這い上り、庇の上にまで図形や古代文字が描かれている。
コナもごく初歩的な陣をいくつかまかされた。
不思議な時間だった。いつもなら、人通りが多い通りでこんなことをしても、誰かの靴によって消されてしまう。
魔法陣は繊細で、記号がひとつ無くなるだけで機能しなくなってしまう。だから仕事先では、魔法書にあらかじめ陣を認め、それを使うのだ。
だが通行人たちは丁寧に、ひとつの線も消さないように避けて歩いていく。道に描かれたものがあまりにも巨大で、魔術に使うものというより無限に広がる美しい紋様に見えたのかもしれない。
「よし、これで完成だね。ご協力どうもありがとう」
メルが宣言すると、魔術師たちは音が出ないよう口笛を吹く真似をしたり、そっと拳を合わせたりした。
そして陣の外に出て、なり行きを見守っている。みんな、苦労して作ったものが何に使われるのか知りたいのだろう。
「《カマラダの祈りによって始め、到来を待つ》」
メルは呪文を唱えながら最初の陣の上に手をかざしていた。
「杖がないなら貸してあげるわよ?」
「しっ、静かに!」
杖は精神集中に必要な道具だが、メルは最初の陣の上に直接、魔力を注ぎ込む。
目には見えない力が魔法陣を通路にして隅々まで行き渡り、瞳の色と同じアイス・ブルーに輝きはじめた。
コナは、最初の魔法陣が間違っていなかったことに驚いた。
間違っていたなら、体の外に出た魔力は行き渡らず、意味を失って霧散してしまうはずだからだ。
「《グアダニャーレの知恵によって深淵に至り、第一の扉よ開け。第二の扉はサルセルの助けによって開かれる。第三の扉よ、エモニの光輝によって開かれる》」
輝きは次の陣を通って増幅し、さらに次の魔法陣に行き渡っていく。輝きは路地を満たし、美しい紋様を光の花畑に変えていく。
「きれいね……」
誰からともなく、呟く声が聞こえた。
魔術師でない者も、完成した魔法陣に見入っている。
詠唱が止み、光が一旦、地面に吸い込まれるように消える。
と、そのとき。
ギルドの扉が開き、ひとりの魔術師が現れた。
ナターレの弟子で、まだ若い十代前半の少年が、無防備に陣の上に足を下ろした。
「……なんだこれ?」
「食堂では中級魔術講座が開かれていたから、講義が終わったらすぐに来ると思ってたよ。コナの泣き顔を見にね。――《最後の扉を開けよ、時の魔物よ》!」
一瞬、魔法陣に再び光が灯り、少年の真下にある魔法陣が浮かび上がり、全身を包んだ。魔力でできた美しい青い氷に閉じ込められ、そして光が退いたとき、少年はその場に釘付けになって動けないままになっていた。
大型で動きのはやい魔獣を捕まえるときに真魔術師がよく用いる《時間停滞》の魔法である。
メルは馬鹿のようにその場で驚いたままになっている少年の懐から、コナの頭巾を取り戻す。
そして頭上に、水の入った桶を運んできて逆さにして置いた。陣の内側では、水は零れない。
ついでに、卵をもらってきて、顔面めがけて思いっきり投擲する。
卵は陣に入った瞬間、空中に浮かんだまま止まった。
見物人たちは、それがナターレの弟子であると聞き、納得のいった顔で頷いたり、腐った野菜を投げつける者もいた。
パチン、とメルが手を叩く。
次のの瞬間、少年は頭から水を被り、顔面で生卵がはじけ、さらに木桶をかぶる。
誰かがその様子をみて少しだけ笑い声を立て、時が動き出した。
人々は路地を歩み出し、白墨の魔法陣も靴の裏で削れて消えていく。
メルはコナの手をとって、路地裏に逃げ込んだ。
「あ、あんなことしてよかったんでしょうか……」
「いいかい、コナ。魔術はすごいけれど、ひとりでは戦えない。みんなの協力があって、はじめて力がだせるんだよ。いつか、彼は自分の傲慢さを捨ててそのことを学ぶべきなんだ」
「め、メルさんは、魔術師なの?」
メルはコナを見つめ、肩を竦めた。
「さあ。長生きしてるからね、知恵があるだけさ。――じゃあね」
片手を挙げて宿のほうへと足早に去っていく。
ありがとうございます、という小さな声が遠ざかる。
かもめ亭に到着するなり、メルは膝から崩れ落ちた。
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「メルメル師匠。海に落っこちて高熱だして死にかけたばかりなのに、遊び歩いて悪化させたって?」
かもめ亭の主が、薬を煮溶かして持ってくる。
「これには事情があるというか、そういうわけじゃ……うっ、苦い……!」
「しばらく大人しく寝ていたほうがいいよ。子供じゃないんだからね」
主が去ったあと、メルは布団にくるまり、不服そうな顔でチビチビと薬湯を飲んでいた。