第3話 こだわりの服
街に夜明けが訪れる頃。
シマハは作業台の上にいくつかの生地を広げた。
柔らかい茶色のもの、深い藍色のもの、臙脂、緑。
藍色のものは生地の質がよく、手触りが滑らかだ。
表面に掌を滑らせると、明るい藍がより深い夜の色に変わる。
この布地には銀色の糸で刺繍をして、夜空をうつし取ってみたい、と彼女は想像を巡らせる。大小さまざまな星の形を縫い取るのもいい。裏地に月の紋様を隠したい。それとも小さな草花の模様にして、遠目からは星空に見えるよう配置しようか。
きっと美しい女性への贈り物になるだろう。
臙脂のものは、思ったよりも赤味が強い。おそらく男ものとして仕立てるのが良い。両肩に金の月桂樹の枝葉の模様、裏地に白の毛皮を……それだと、どこかの王様みたい。シマハは自分の想像に、くすりと笑った。
そうしてどんなものを仕立てようか想像を巡らせているうちに小一時間は経った。
おかみさんたちが窓の下の井戸傍に集まりはじめているのに気がついた。
シマハは、いけない、と思い、仕立ての作業にとりかかり始める。
布地は、結局、茶色いものを選んだ。
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動かしやすそうな、使い込まれたグローブは、右手の親指と一指し指、中指に動物の皮が当てられていて、初めて会ったときに『この人は弓を引くのかしら』と考えた。そのときのことをシマハは今でもありありと思い出せる。
鎧下は瞳と同じ鮮やかで澄んだ青。
袖口と立襟に布が当てられ、ほつれを覆い隠している。
これはシマハの仕事だった。それから肘当ても。
これを使うときは、その上に革の軽装鎧を着込むはずだ。
金属鎧のほうが頑丈だが、身に着けているのを見たことが無い。
防具はシンプルな拵えで、胸当てと肩のベルトの繋ぎに銀細工が使われているのが唯一の意匠だった。羽を広げた鳥が胸当てを咥えているように見えるものだ。
その鳥の清々しい表情がシマハは何とも言えず好きだった。
銀はすぐに曇るから、装備に気をつかっているのもよくわかる。
それから鼠色のズボン、脛当てと歩きやすそうなブーツ。
いつもの服装を一そろいまとったメルメル師匠が、玄関口で背筋をピンとして、待っていた。
「お待たせしてしまいましたか?」
メルメル師匠は、むっつりと黙ったままブンブンと頭を両側に振る。
「こちら、頼まれていた冬用のマントです。大きな穴だったので、少し目立つかもわかりませんけど……」
メルメル師匠……こと冒険者メルが、服をまるごと新調することは雪が降るより珍しいことだった。
確かに、王侯貴族でもなければ服というのは高い買い物だ。おまけに糸や釦や生地や染料と、こだわりはじめたらきりがなく、値段も天井知らずとなる。
けれど、オリヴィニスの冒険者たちは王侯貴族たちの次に身を飾るものにこだわるので有名だった。
名誉や欲もあるだろうが、迷宮に出かけたきりいつ強敵の前に倒れるかわからない者にとっては、冒険のための衣装こそが一世一代の晴れ着なのだ。
だから、たとえその日暮らしの貧乏冒険者であっても、武器や防具の拵え、ローブの刺繍、靴紐の色と、何かしらこだわりがあり、有名になればなるほど身を飾りたてるのが普通だった。
メルがどれくらいの腕前の冒険者なのかは、シマハにはわからない。
けれど、彼と同じくらい長い間オリヴィニスで生き残っているベテランたちと比べてもメルは地味だったし、着慣れたものを何度も繕って着続けることにこだわった。
破れたロングマントは、シマハの丁寧な手仕事によって、ほぼ完璧に修繕されている。冬用で生地が厚く、足元まであるそれは、荷物が背負えるように前身頃に深いスリットが二つ入っているものだ。
仕事を確かめ、メルは満足そうにうなずいた。
「それから、こちら。よければ普段にでも使っていただけませんか?」
シマハは先ほどのより丈の短いハーフマントを広げてみせた。丈は腰より少し上。肩にかけておくこともできるし、前を閉じて金釦で留めておくこともできる。
茶色の地に、柄はオレンジと黒が並んだ細め縦縞が模様として入っていた。
「極力地味なものにしようと努めたんですが……」
しかし、メルはこんな注文は出していないので、首を傾げるばかりだ。
「このあいだ、こちらを頂いたので。そのお返しです。お代はいりません」
シマハは懐からそっと白蝶貝の平たい針入れを取り出した。
それは光に当たって滑らかに輝いている。
すみれの模様の、ほんものの金細工が施してある逸品だ。
うっかり、換金してくれてもよかったのにとメルは口を滑らせた。
彼は、シマハが叔母夫婦の家の二階で仕事を請け負うだけでなく、自分の店を持ちたいと考えていることを知っていたのだ。
「まあ……。そうでしたの。私、贈り物がとてもうれしくて、そんなこと思いもつきませんでした。お店のほうは貯めたお金から小さなお店を借りるつもりですから、お気を使って頂かなくても大丈夫ですよ」
シマハはそう言って、針入れを返そうとした。
メルは困り顔で、針入れを乗せたシマハの両手を、自分の手でそっと包んだ。
そして、ゆっくりと彼女の胸のほうへ押し返した。
かわりにメルはマントを受け取り、羽織ってみせた。
「良くお似合いですこと」
シマハは微笑んでいた。
メルも、恥ずかしそうに頬を赤くそめて微笑み返した。