第36話 魔物退治
女神ルスタの古代神殿は、大陸南部を代表する一大観光名所である。
古い祭祀場跡地でありながら、大きな街道沿いにあって交通の便もよく、少し足を延ばせば有名な湯治場にもほど近いこの場所は《巡礼》という建前のもとに人が集まりやすい。
沿道には行商人たちが集まり、この地方でジアックと呼ばれる独特の臭みと甘い味が特徴の果実を使った土産ものの販売に余念がなかった。
神聖さや神への畏敬の念をかなぐり捨てたこの場所に、本来は冒険者の仕事などないに等しい。だが。
暁の星団は依頼主である商人頭のもとを訪ねてすぐ、歓待を受けた。
「お待ちしておりました! 皆様が来るのを今か今かと待ち構えていたところでして。このままじゃ客足も遠のくばかりでどうしたことかと……おや、ギルドから連絡された人数よりも少ないようですな……?」
ひい、ふう、みい、と数を数え、商人頭が不安そうに言う。
「そのへんのことは心配ご無用! この輝く金板が見えるでしょう、うちの連中はオリヴィニスでもそのへんにゃ転がってない腕利きだ。四人もいれば十分なのさ」
「はあ……」
赤毛の剣士、アトゥが自信満々に言うのを聞いて、商人頭は首をひねった後、そのことについて深く考えるのをやめたらしい。
たとえ野たれ死んだところで、しょせんは根無し草だ。
ギルドから違う冒険者を送ってもらい、違約金を請求すれば事は済むと考えたのだろう。
アトゥはアトゥで、外向きの笑顔のままひそかに近くにいたメルの肩を抱きよせた。
「……本当に大丈夫なんだろうな? メルメル師匠」
「どうなっても知らないからね、まったく」
メルは少しだけ怒った様子だった。
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土産物屋に左右を挟まれながら小高い丘の上へとのぼっていくと、ちょうど四角錘の形になるよう、非常に精密な計算に基づいて作られた山のように大きな建造物がある。これが大陸に名を馳せる大神殿である。
古代神殿に《不届き者》が現れたのは三日ほど前にさかのぼる。
激しい雷が大神殿を打ち据えた嵐の翌日、夜が明けてから様子を見に行くと、頂上付近を平らに削って儲けられた祭祀場には凄惨な光景が広がっていた。
供物を捧げる台には哀れな犠牲者が横たわり、神の威光を示す六本の柱には首つり死体がかかっていたのだ。
彼ら六人は同じ装束をまとい、胸に護符を提げていた。
印は女神ルスタに弓引く邪教のものである。
邪悪な神の信徒は時折、《人を魔物に変える儀式》を行うために、神殿を訪れる。
もちろんそれで女神の力が弱まることはなく、せいぜい観光客がよりつかなくなる程度の効果しかないのだが、彼らは聞く耳をもたない。
こうして生み出された魔物は光を避け、往々にして地下へともぐりこんだ。
三角形の大神殿の脇にはちょうど、大神殿を小ぶりにしたような小神殿がある。
これは女神信仰者が作った地下神殿への入り口で、明かりのない人工の洞窟を降りていくと女神ルスタの像が置かれており、そこにろうそくの明かりを捧げると願いがかなうという――いわれを商人たちが勝手に拵えて客を集めているという――せこい商売道具である。
内部は迷路のように入り組んでいて、魔物の隠れ家にちょうどいい。
アトゥたちはここに逃げ込んだであろう魔物、《スキュラ》を倒すためにギルドから派遣されたのだった。
スキュラは若い女の上半身から六頭の犬が生えた魔物で、本来ならアトゥたち暁の星団が総がかりで取り掛かる仕事だった。
だが今回はアトゥとシビル、そしてヨーンの三人、そしてメルしかいなかった。
それというのもメルがうっかり「スキュラをひとりでも殺せるいい方法がある」と口走ってしまったのが原因だ。アトゥはその方法をしきりに知りたがった。六人でやらなければいけない仕事を三人でこなせるなら、経費の削減になるからだ。
「言っておくけど、この件について苦情は一切受け付けないからね……」
メルは小神殿の最奥、女神像の広場の真ん中に背負ってきた樽を置いた。
頑丈な素材でつくられた樽は、中に何が入っているのかパンパンに膨らんでいる。
「よろしくお願いします、メルメル師匠!」
「やっちゃってください師匠!」
シビルとヨーンは、メルよりもずっと離れたところにいる。
シビルにいたってはヨーンの構える盾のうしろに引っ込んだまま、出てこようとしない。
あくまでもスキュラ退治はメルに任せるつもりのようだ。
「……まったく」
メルが溜息を吐くのと同時に、静かな洞窟の中に騒がしい音が響き渡った。
「メルメル師匠! 来たぞッ!」
全員の中でいちばん足の速いアトゥが、広場に文字通り転がりこんだ。
一拍置いて、狭い通路の向こうの暗がりから、獣のにおいが忍び寄ってくる。
静けさに異音が混じった。
長い爪が壁を引っかく音と、「助けて」「おうちに帰して」「苦しいよう」と泣き叫ぶ女の声が近づいてくる。
そして闇の暗さを引きずるように、禍々しい姿の女が現れた。
若い女の裸身は苦痛に捩れ、二本の腕が涙の零れる頬を掻き毟っている。
下半身から生えた六頭の犬は、それぞれの口から涎を零し、敵の血潮を貪ろうとしていた。
「早すぎるよ!」とメルが叫んだ。
「悪い、途中で気づかれちまった!」
準備が整っていないことを悟ると、アトゥは迷いなく剣を抜く。
ひとつ閃く刃が一頭の牙を防ぎ、もう片方の刃が隣の犬の頭を押さえこむ。
だが三匹目がアトゥの脛に食らいつき、人ならざる怪力で地面に引きずり倒した。
ヨーンが走って援護に向かう。
シビルは青い顔をしていた。
「シビル――もしできたら感覚遮断の魔法をかけてやって。僕は自分でやるから」
「感覚遮断……?」
メルは呪文を唱え、素早く体に銀の粉を振りかけながら、耳と瞳と鼻の上に指先で魔法の印を描いていく。
「《私の耳は羽搏きの鳥、日暮れに帰る》《私の瞳は扉の向こう、鍵をかける。鍵は手の中》《私の鼻は忘却の彼方。口笛で思い出す》」
シビルにはそれが地方に伝わる古いまじないを使った呪文で、描いている記号が非常に正確な封印魔術のそれであることがわかった。
魔法が発動し、今のメルは完全に視覚、嗅覚、聴覚を失った状態だ。
その状態で、メルは短剣を抜く。
「《光よ》!」
柄にはめこまれた宝石から、白い光が放たれ、スキュラが絶叫を上げる。
犬たちは怒り狂い、六つの口で吠えたてる。
「うっ! いきなり何するの、メルメル師匠!」
巻き込まれたシビルが声を上げるが、全く聞こえていない様子だ。
続いてメルは金色の小さな縦笛を取り出した。
笛にはギルド謹製の魔法の札が貼り付けられ、異様な気配を放っていた。
魔法の道具――というよりは邪悪な呪いの品であることが見てわかるほどだ。
メルは札を取り払い、思いっきり空気を吸い込み、笛を吹いた。
その瞬間、狭い地下の空間を、聞くに堪えない大音響が鳴り響いた。
小さな笛からは全く想像のつかない、もはや音ではなく衝撃がかけぬけていく。
さらに、メルは腰の手斧を抜くと、パンパンに膨らんだ樽に叩きつける。
瞬間、樽は割れ、中にはいっていた黄色に濁った液体が飛沫を上げて飛び散った。
それはジアックを絞った果汁を、十分な時間をかけて腐らせておいたものだった。
「犬の嗅覚は人間の百万倍、非常に発達した聴覚と、闇の中でも見通せる目を持つ――それがスキュラの場合六頭分だから、ひとたまりもないよね」
すべてが片づいたとき、広場に立っている者はメルメル師匠ひとりだった。
鍵を開ける仕種で視界にかかった魔法を解き、スキュラと同じく昏倒しているアトゥやシビル、そしてヨーンを眺めた。
「……楽をして稼ごうとするからそうなるんだよ」
メルは肩を竦めた。
今や広場はただでさえ臭気の強いジアックの腐った汁だらけで、女神の麗しい横顔にまでべっとりと降りかかっている。
なにより酷いのは吐き気を催す臭いだ。
巡礼者が再びここに入れるようになるまで、おそらく二、三日はかかるだろう。