第223話 今日から神様になる方法 下 ☆
小人サイズの酒樽ごと酒を飲み、小人たちが捧げる歌や舞踊を眺め、夜はふけていく。マテルとヴィルヘルミナは楽しそうだ。外界と接したことのない小人族は公用語を話さないが、酔っ払いに言葉は無意味だった。すっかり打ち解けて仲良くしている。
フギンは少し離れたところからその様子を見守っていた。
ヴィルヘルミナはともかく、マテルまでもが酒盛りに参加しているのをみるとは思わなかった。考えてみると、旅の最中も、旅が終わってからも、こんなふうに気楽な楽しみを持ったことはなかった。
記憶を取り戻してからは死者のためにあちこちを飛び回り、それが終わってからはエミリアのために……。工房やミダイヤやフィヨルやテルセロまで巻き込んで奔走していたからだ。
はなから嫌々巻き込まれているミダイヤとかはともかくとして、マテルとヴィルヘルミナはフギンの気持ちを理解してくれていると思っていた。だが、もしかすると無理を強いていたのかもしれないとも思う。
本当はひと息つきたいのに、フギンがそれを許さなかったのではないかと。
他人の気持ちが分からないという欠点は、旅のあいだには治らなかったらしい。
「はい」
悩んでいるあいだに、いつの間にかメルが隣にきていた。
差し出された器には、お湯割りにしたハチミツ酒が入っている。
「少し飲むといい。気が楽になるよ」
「……礼を言うべきなんだろうな」
「なんの? おかしなこと言うね。君は僕のこときらいだろ、僕も苦手だ」
メルは笑いながら腰をおろす。
メルが、ふたりの息抜きのために誘ってくれたのはわかっている。マテルが賛成したのは、フギンのためでもあるだろう。フギンが自分からは絶対に「休もう」とは言い出さないとわかっているからだ。
「君は生まれたときから重たい責任を背負ってきた。ここのところはずっと戦火の中にいたね」
「女神がそう望まれたからだ」
「女神はあれをしろこれをしろとは言わない。ただ、生まれる場所を決めるだけだ。——戦争はもう終わったんだよ、指揮官殿」
もう一度強く差し出されたカップを、フギンは受け取った。
暖かい。ぬくもりと甘い香りが、意志とは違うところで、フギンの強張った神経を解きほぐしていく。
フギンはわざとそれを拒んだ。全身の神経と筋肉が緊張する。
戦いの中で生きるということは、つまりはそういうことだった。砦にいたときも、アリッシュたちといたときも、フギンは緊張し続けていた。とにかく何かしなければ、少しでも働かなければ、考え続けていなければ、誰かが死んだ。弱い者から死んでいく。戦う手段のない女たち、子供たちから順番に……。
「もう終わりだと言われても、そういう気はしない。帝国の恐ろしさは俺が一番よくわかってる……はやく何とかしなければいけないんだ。こんなところで遊んでいる間に、また悲劇が起きるかもしれない」
「君が戦っているのは帝国ではなく、君の恐怖だ。そうして恐れれば恐れるほど敵は強大になる」
「そうではない。……いつかはまた、戦わないといけないんだ。この計画がうまくいったとしても……でも、それだけではエミリアを自由にできない。ミダイヤも、そして俺自身も……」
メルは黙って、フギンの言葉を待っていた。
平静を保った薄青の瞳のなかに、焚火の炎がうつりこんでいた。
それと同じ瞳の色を、かつて間近に見ていた。
誰よりも強い好奇心を抱いて、破滅に進んで行ってしまった人。メルの瞳は彼女と同じ色をしていた。
ヴィルヘルミナとマテルはへべれけになり、小さな妖精たちを肩にのせて踊っている。その光景が楽しげであればあるほど、フギンは苦しくなる。
「論文が広まれば、賢者の石が周知の事実になれば、アマレナの呪いから解放されると俺はみんなに言った。だが、それは半分うそだ。本当に自由になるためには……いつか、必ず帝国と渡り合わなければいけない時が来る」
フギンは、はじめから自分がしていることが何なのかを理解していた。帝国がエミリアを追う意味が失われたとしても、アマレナやベテルの呪いが、彼らが残していった憎悪が帝国から消え去ったかどうか確かなことはいえない。
「エミリアをはっきりした形で賢者の石をめぐる因縁から遠ざけるためには、帝国と直接交渉する必要がある……論文はその布石だ。奴らを交渉のテーブルに乗せるための……」
賢者の石の秘密を解き明かせば、帝国は動揺するだろう。
歴史から消したはずの錬金術師がいまも生きていて、その功績が何十年たったいま歴史に浮かび上がるとしたら。やがて帝国側がその火消しのために、なんらかの動きをみせるはずだ。そのときはグリシナ王国の後継者としてではなく、帝国の反逆者としてでもなく、ただひとりの錬金術師となったフギンに誰かが会いに来るはず……。
フギンはその時をずっと待っていた。工房でインクまみれになりながら、帝国側の誰かが接触してくるのを待っていた。
だが、その時は訪れない。明日も明後日も、呆れかえるほどに同じ毎日が続いていく。借金取りのほうが熱心に訪ねてくるくらいだ。
「たったひとりでも、はっきりとした形で救いたいんだ」
フギンは答えた。シャグランかもしれない。
砦で、フェイリュアたちを救えなかった後悔が、ひとつの願いを紡ぐ。誰一人として助けることができなかった……そう言って責める声が、フギンをいつもせかしている。記憶を取り戻してからというもの、ずっとだ。
「フギン、君が待ち続けているそのときは、いつ来るかはわからないよ。明日かもしれない。明後日かもしれない。帝国が罪をみとめ、頭を下げるなんて前代未聞だ。十年後か、それとも百年後か……だけど、あせることはない。君なら待てる」
「それでは意味がない。人の命は短いんだ。好き勝手に生きてるお前にはわからないだろうが……」
「君が危険にさらしたオリヴィニスは僕の街だ。君のために戦ったのも僕の弟子と仲間たちだよ。わかってる?」
「…………悪かった」
暴走して意識のない間にしたこととはいえ、多大な迷惑をかけたという自覚はある。
責任と、罪の意識と、不透明な今後に項垂れる鈍色の頭に向き合い、メルはハチミツ酒のカップを握りしめているフギンの手を取った。
「フギン……僕は君のように生きたことはないから、君の気持ちが理解できるとは思わない。でも冒険者にとって大切なことは教えられる。それはね、待つことだ。待つことは、挑むことと同じくらい大事なことだよ」
「メル、だけど……」
「大丈夫だよ、フギン。そうだな、まえに僕がイストワルの氷穴に落ちたときの話をしたことあったっけ……」
強張った右手をカップから外し、その手首に亜麻色の糸を巻いた。
いつのまにか、メルは糸束をいくつか持っていた。
ほかの色の糸束も手首に重ねて巻き、器用な指先がそれぞれの糸を繰りはじめる。
「普通の洞穴とちがってね、氷穴はこわいんだ。ツルツル滑って登れない。爪つきの特注の靴をはいていても無理。刃も立たないし、身動きできない……でも、僕は助けが来るのを待った」
「……誰も来なかったら?」
「フギン、冒険者は待ち続けた人のことを責めたりしない。ドラゴンを倒そうとして、その準備をしたまま老境に達した冒険者と、竜殺しの英雄は等しく扱う。君も待てばいい。そのときが必ず来ると思うなら、そのときがいつ来てもいいように準備をして待つことだ。それが今の君に必要なことだよ」
メルはフギンの腕を使い、魔術師の《お守り》を編み始めた。
糸を絡ませながら、鳥や草木や複雑な模様を編む。編み目のひとつひとつが呪文であり魔法陣であり、そして願いごとだ。これを持つ人が安らかであるよう、女神の加護があるようにと願いながら編んでいく。
「《祝福せよ、この息吹は春のめざめ、この指は夏のひざし、このまなざしは秋のまほろば、冬は約束。おまえたちがつねにあるように。満ちてともにあるように。扉がみずから開くように。めぐるすべてが贄となり、光がかがやきますように……》」
最後の留め石にサファイアのビーズを編み込み、完成したお守りをフギンの腕に巻き付ける。
呪文が完成し、メルが呼び寄せた精霊がフギンのそばにあるのを感じる。
「……メルメル師匠、オリヴィニスの助けを借りたい」
「約束はできない。僕はただの冒険者で、オリヴィニスのすべてではない。でも、何かいい手立てを思いついたら知らせるよ。だから、あせって何もかも台無しにしないように」
「わかった」
「とくに、コルンフォリ王家を当てにするのはダメだ。アンテノーラは風切り羽があるかぎり君に味方するが、レヴには野心がある。彼は君を助けて、それで終わりにはしない。レヴと近づくならオリヴィニスは手を切る」
おそらく最後の言葉が、メルが一番言いたいことだっただろう。
オリヴィニスは王国と帝国の緩衝地帯だ。二国のどちらにも与しないことで自由を得てきた。無理もない。
帝国と交渉し、エミリアの身の安全を完全に保障させる。言葉にすればささやかな願いであるが、これまで誰もなせなかった願いだった。
帝国は論文を無視することができる。何も起きなかったと民に言い聞かせ、フギンの元に再び暗殺者を送り込むことができる。
そうなれば、フギンはザフィリを去るしかない。
待つことはむずかしい。ほかの何よりも。
フギンは懐にしまっていた紙切れを取り出し、広げた。
印刷機をザフィリに運び、論文のかわりに刷ろうと考えていたものの見本だった。
フギンはそれを小さく破り、焚火にくべた。
炎が燃え上がって紙を灰に変え、また静かになる。
夜はまだ明けないが、いつかは……。
追い風が吹くのを待ちながら、フギンは東の空を見つめていた。