第19話 海の洞(うつろ)
無人の島がある。
周囲の海は驚くほど澄んだ青と緑のまだらで、島は絶壁に囲まれ、上のほうは起伏がなく平らだった。
そこにはあまり背の高くない緑が茂っており、強いていうならば何もない。
水たまりに平らな石をぷかりと浮かせたような島だった。
出してもらった小さな漁船で近づくと、ようやく岸壁の大きさがわかってくる。
「ここで待っていればいいんですよね」
マントを脱ぎ、革鎧を外し、鎧下も脱いで、ブーツも放りだす。景気よく装備を放り出しはじめたメルに、大きな麦わらぼうしをかぶったセルタスが確認する。
体中の色んなところから、投げナイフや何に使うのかもわからない武器が飛び出してきた。
メルは短剣とナイフ、革の小物入れを下げただけの肌着姿で海に飛び込もうとしているところだった。
「待ってください。一応お仕事しますから」
セルタスは宝石の飾られた杖を持ち、右手でメルの額に触れた。
「精霊よ……」
風が呼びこまれ、不自然な波が立ち、舟が大きく揺れる。
「祝福あれ、祝福あれ、祝福あれ……御霊守らせ給え」
セルタスの瞳は普段、明るい緑なのだが、今は水底の色をしている。
一種の《《神懸かり》》だ。
呪文が終わると、海は元通りに凪ぎ始めた。
メルは不満そうだ。
「君の呪文は強すぎる」
「なんのこれしき。水棲の魔物は出ない海域、と聞いていますが、念のため」
メルは緑色の透明な三角形の鱗を口に咥えた。
光に当たるとギラリと輝くそれは、水棲の魔物の鱗に見える。
舟のへりを蹴り、頭から海に飛び込む。
飛沫をあげたのは最初だけ。しなやかに鋭く、海水に斬り込んでいく。
その脚には魚の鱗とヒレのようなものが浮かび、脇の下にはエラができている。
鱗もまた、きっと魔法の道具のひとつなのだろう……。水中に潜った体は、息継ぎなしに岩壁の切れ目に近づいていく。
茶褐色の絶壁に、くっきりとついた罅割れは大半が海面の下にある。
地上部分ではただまっすぐな亀裂だったそれは、下に行くほど末広がりになり、大きな開口部をつくっていた。
内部は真性の暗闇で満たされている。
メルは一旦地上に上がり、鱗を離して呪文を唱える。
「《光よ、来たれ》」
腰の短剣の鍔飾りが、白い光を放った。
明かりを確保し、再び潜水して、闇の中へと入っていく。
ゆるやかな流れに従って、メルは泳ぐ。
手の平で水をかき、足で蹴り、闇の中に入っていく。
光は手近な洞窟の壁や天井を照らし出すが、底は深く、見えなかった。
ここは人のいてはいけない場所なのかもしれない。
ほんの一瞬だけ、そんな思いにとらわれる。
明らかに下がった水温が、ここには来てくれるなと、冷たく体を押し返してくる気がした。
~~~~~
事前に聞いていた通り、広大な卵型の空間があった。
天井はドーム状に窄まっていて、西側に亀裂があり、光が差し込む。
メルは適当な岩をハンマーで砕き、革の袋に入れてしまう。
それを腰に下げた。
目的は達成し、潮の流れが変わるまでまだしばらく時間があった。
ぼんやりと浮きながら、天井を眺めていた。
黒く濡れた岩肌が、亀裂から差し込んだ明かりに反射してきらきら輝いている。
ちょうどその天然の明かりとりのあるところが一番高い場所だ。
岩肌は適度にゴツゴツしていて、手がかりも足がかりも十分ある。天井の角度も急ではない。
ただ、出口はさほど大きな穴ではないから、そこから地上に出るのは難しそうだ。
じっと眺めていると、その岩肌のあちこちに藻がこびりついているのが見えた。
「あそこまで水が来るのかな……?」
メルは反転して、顔を水につけた。
足元は暗く、底は見えない。
石ころを一握り掴み、もう一度呪文を唱える。
輝く石を投げ入れると、光は地面の底までゆっくりと落ちて行く。
「……?」
その内のひとつが、大きな影のそばを横切った。
影の正体は巨大な穴のようだった。
メルが通ってきた穴とは違う。もっと深いところに、両側にある。
ただ、それを穴といっていいのかは疑問だった。
あまりにも巨大なのだ。
石ころは下へ下へ、とうとう、光の届かないところまで消えて行った。
「……戻ろう」
メルは、あの穴がどこに続いているのか確かめたくなる気持ちを抑えた。
ここから先に行くための十分な準備をしていない。
そのとき、今までより強い流れを体に感じた。
「……?」
おーん、という音が聞こえた。
なんだろう。洞窟を風が通り抜けるときのような、どこか金属質な唸り声だ。
それは大きな穴のほうから聞こえ、卵型のドームに響き渡った。
水流がさらに強くなり、水かさが一気に増す。
「……っ!」
潮の流れが変わったか……いや、そうではない。まだその時間ではない。
メルは鱗を咥えた。
落とさないよう、しっかりと口のあたりを手で押さえこむ。
海水はどんどん増えて行き、とうとう天井近くまで迫った。
岩壁に叩きつけられたら、重傷は免れない。必死に波に逆らっているが、逆らおうとして逆らえるような力ではなかった。
流れが再び急に変化し、今度は、海中に引き込む流れに変わった。
メルの小さな体はなすすべなく飲み込まれて行く。
水中には上下も、左右もない。ほんの少しの明かりで、天井の亀裂がどこにあるのかわかる程度だ。
そのとき、足下に気配を感じ、メルは全身を緊張させた。
急激な流れにもみくちゃにされながらも、必死に目を見開き、短剣の柄に手をやった。
大穴から何かがでてくる。真っ黒な生きものだ。
話に聞くクジラ、という生物に似ている。
ただ、似ているだけで、見たことも訊いたこともない生物だった。
おぞましい姿だ。煤の塊か、それとも影か……あの暗い洞穴がそのまま、這いずり出してきたかのようだった。
ただ、それには質感があった。
《《生きているものの》》質感だ。
あれは精霊でも魔物でもなく、大いなる自然に血と肉を受けたものなのだ。
それは穴から出てくると、鼻先をメルの方角に向けた。その周囲には無数の小さな魚たちが群れをなしている。
恐ろしいものが、こちらに向かって来る。
短剣を構えたが、無駄だと理解していた。
分厚い黒い肌にそれを突き立てたとして、何になるだろう。それは人間には絶対に敵わないもので、メルは波間に漂う塵のようなものだった。
鯨によく似たバケモノは勢いよく傍らを通り抜けていった。
天井すれすれを大きく周回し、魚たちを引き連れて再び下がってくる。
体の横幅と同じ大きさの口、乱杭歯、突き出した大きな牙が迫ってくるのが見えた。
あれに飲まれたら……。
いったいどうなるのだろう? 痛みはうまく想像できなかった。
それはゆっくりと、メルのすぐそばを抜けていく。
体と同じくらいの大きさの瞳が、じっと見つめてくる気がした。
人間と同じ形をした、白目のある瞳だった。色は黒。
黒の中に、メルの魔術がはなつ光と……緑の輝きがあった。
ふと、メルは全身が緑に輝いていることに気がついた。
精霊の守護が働いている。
そのせい、ということもないだろう。
やろうと思えば、精霊の加護ごと丸のみにできる。
でもバケモノはそうせず、もうひとつの大穴をくぐり抜けて消えて行った。
~~~~~
小舟は、洞の入り口から沖へと離れた場所に移動していた。
精霊術師は荷物に背を預けて眠っているようにみえた。
だが、メルが泳いでいくと、もぞもぞ動きはじめ、びしょ濡れのメルを船上へと引き上げた。
セルタスは採取してきた岩を預かると、重さを確かめて「軽い」と言った。
ルーペを取り出し、じっと観察し始める。それで納得したのか、濡れていない袋を広げて紙に包み、しまった。
「舟が流されたかと思ってヒヤヒヤしたよ」
「いいえ、水平線が見たかったんです。こうして波間で揺られていると、人間って小さいなあって思い出すでしょう?」
あのバケモノを思い出し、メルは溜息を吐いた。
「何かありました?」
メルは肩をすくめて、何も、と答えた。