考えるということについて
言葉に入る前に、ちょっとこんな話を書いておこうかと思います。
EテレのTEDで自閉症の話を見ていて、以前書いていたことを思いだしたので。
これは絵で考えるのとも、パターンで考えるのとも、言葉で考えるのとも違う話です…… だと思う。
何かを考えるという際、言葉を用いて考えるということが、おそらく一般的に言われることかと思います。
ここでは、「何かがひらめく」のと「考える」のとは別物として考えます。その違いは、ひらめく方は一発なにかを思いつくことであり、考えるのは最初はひらめきでもいいですがそれに基づいて二発以上継続して頭のなかになにかをイメージすることとします。無関係のひらめきが二発あったとしても、それは二発のひらめきであり、考えるとは言わないことにします。
さて、ここで問題にしたいのは、言葉を使わずに考えることが可能かということです。結論から言えば、可能です。頭のなかで何がしかの考えを「言葉にする前に」、そのままそれに基づいた次のイメージを作るわけです。イメージと言っても絵とかではありません。いわば脳の状態のようなものです。
人にもよるのだろうと思いますが、これをやるには多少の慣れが必要です。そして、人にもよるのだろうと思いますが、多少疲れます。
これに慣れる際には、「言葉にする前に、すでに言葉にできるものが頭のなかにあるはずだ」という思い込みが、まず必要になります。そして、頭のなかにあるイメージは、ひらめきの場合と同じく失われやすいので、考えたイメージの各段階を多少意識的に残しておくようにしなければなりません。残すようにしておかないと、最後の段階のイメージが残るだけで、どうしてそうなったのかが分からなくなる場合があります。
さて、これが可能ということになると、ちょっと疑問が出てきます。人間が考える時に言葉は必要なのでしょうか? そして、言葉を持っていない動物たちは考えているのでしょうか? そして人工知能は考えているのでしょうか?
言葉は必要かということについては、多分人間は成長過程で言葉を基本にして考えるようになってしまうので、こういう考え方をするより言葉を使って考える方が楽です。必要かという問題からはズレてしまいますが、そっちの方が楽です。
では、動物はどうなのでしょうか? これは分かりません。ただ、もしかすると動物についての考えを少し変える必要があるかもしれません。
人工知能はプログラムが動いているだけかもしれません。でも、それで考えていないと言えるのでしょうか? 分かりません。
少し前に「神々の沈黙」という本を読んでいるということを書きました。その本では、大雑把な話、紀元前1000年あたりから、紀元後しばらくまでの間に、人間は意識を持たない状態から意識を持つ状態に変化してきたと主張されています。意識ということを考えると、たぶん言葉というものを考えると思います。ですが、粘土板の楔形文字があるように、今から5000~6000年前から文字はありましたし、文字があるということは当然言葉があったわけです。ただし、5000年前あたりとかから、書かれている内容が次第に変わっているとも主張されています。
言葉があれば考えていたと言えるのか、言葉があっても考えていたとは言えないのか、考えることに言葉はいらないのか。言葉に関連する問題も、考えるという事に関連する問題も難しいと思います。