第7話「姉弟」
4/14一章ラスト修正しました。
俺は一匹の巨大な精子だ。嗚咽を噛み殺し、俺は泳ぐ。しっぽも気付けば新生していた。
子宮底にたどり着く。センリの説明と本能に従って、卵管に入る。その先には直径1ミリの卵子が待っているのだ。
仲間のスキルを駆使して、俺は泳ぐ。【韋駄天】も【抵抗軽減】も、対象が一人になったことで、より効果を発揮するようになっていた。スキルを一つ一つ起動していく。身体が段階的に加速していく。
さながらギアチェンジだ。数十ものギアを入れ、トップギアに入るころには視界は完全に流線となって流れていった。
「追いついたぜ。センリ」
卵子を視界に納める。そこにはバンリとその軍団、そしてセンリがいた。
「なぁっ!? お前、どうやって!?」
「【社会の歯車】【乱離拡散】――――【完全凍結】!」
「っ――――僕の盾になれぇええ!!」
対面した直後に俺はスキルを発動。あたり一面を凍らせる。
バンリが自らの軍隊を壁にすることは、分かっていた。センリの記憶から、バンリがそういう人物だあることは想定できた。
しかしそれでいい。バンリの【完全支配】にかかってしまっている彼らの説得は不可能だ。
【エンドウの命を奪った】スキル【図書の大海】の資質を入手した。【アンリの命を奪った】【ダイキの命を奪った】……。
「俺は、もう迷わない」
脳に残酷な通告音が響く。俺の罪を数え上げるように、声は止まない。胸が押しつぶされるように、苦しくなる。それでも俺は、顔を伏せなかった。
この身には、すでに百人もの命が預けられているのだ。
「俺は、生きる」
それがたとえ、エゴだとしても、もはや逃げることも、目をそらすこともできないのだ。
「俺は、受精する」
【完全凍結】を発動。今度こそバンリを捕らえる。バンリにそれを防ぐ手段はない。俺はそれを、センリの記憶を通じて知っていた。
【完全支配lv1】一度でも会話すれば、相手を支配できる能力。使用者より弱い者にのみ有効。スキルランク・エクストラ。
バンリはレース開始直後、そのライトブルーの画面をセンリに見せて言ったのだ。
『ランクエクストラのスキルを持っているやつを、僕は支配できない。だからセンリお姉ちゃんが始末してくるんだ。いいね?』
そして今、俺はランクエクストラのスキルこそ持っていないものの、百ものスキルを有している。【完全支配】が効くはずもなかった。
そして軍隊を失い、スキルを封じられたバンリは、ただのしがない一匹の精子でしかない。
「ぐぞぉおおおおお!! ゴールは、すぐそこなのにぃい!」
バンリの身体が下端から凍っていく。バンリが目をひん剥いて、センリを睨んだ。
「センリ! 殺せ! 僕のために、あいつを殺せ! 命令だぁああ!」
センリが俺を見る。そしてバンリを見た。
「……殺さない。バンリの命令にも、もう従わない」
「なにを言ってるんだ! このクズ! お前の意見は聞いてないって言ってるんだろっぉおおがあああ! 早くしないと、僕の身体があ!!」
とうとうしっぽは凍結し、氷はバンリの身体を侵蝕する。
「【完全支配】ンンンッ!! 命令を聞けよぉおお!」
「センリにそれは、効かないぜ」
よほど焦っているのだろう。バンリは自らのスキルの効果も忘れているらしい。
「ランクエクストラのスキル所持者には、お前のスキルは無意味なんだろ?」
センリは俺の【善意性分配】を奪っているのだ。
「だとしても! スキルなんて関係なくても! 思い出せよ! 僕はお前のご主人様だろぉおおがあああ!?」
「それももう忘れたわ。半分ほどね」
「ああ、記憶は俺に分配されたからな」
【善意性分配】ができるのは記憶のシェアではなく譲渡だ。俺が体験したことを、センリは忘れているのだ。ならばバンリによる支配力も半減する。
センリが俺のとなりへと並ぶ。
「きっと、来てくれると思ってた」
センリのささやき声。ほんの短い別れだったのに、ずいぶん懐かしく思えた。
「二人なら万里にだって、負けやしないわ」
センリは俺にぴとっと身体を寄せると、言い放った。バンリはもがくように首を振る。
「お前! 僕を裏切りやがって! あんなに世話してやったのにッ!」
氷がバンリの身体の半分を覆った。彼の命はもう十秒と持たないだろう。
「そ、そうだッ! お前!」
バンリが俺に向き直る。
「僕と、兄弟になろう。二人で転生しよう。ぼ、僕の能力があれば、金だって女だって、なんだって好き放題だ! 一緒に楽しもうじゃないか! それに、僕は――!!」
名案とばかりにバンリは笑顔を浮かべた。俺は迷うことなく首を横に振った。
「俺の姉弟は、センリだけで十分だ」
【バンリの命を奪いました】スキル【完全支配】の資質を入手しました。――バンリの所持していた資質を全て引き継ぎます【約33万のスキルの素質を入手した】。
バンリは出発前に、他の転生者を全て殺していたらしい。そのためにトップ集団より倍の速度も出せる魚群を作っておきながら、追いつくまでに数時間も要したのだろう。
だがそんなことは、今はどうでも良かった。俺はセンリを見る。
センリは呆けていた。長年の支配者が凍り付けになっているのだ。無理もない。
「センリ」
俺が呼ぶと、センリはようやく俺の方を向いた。彼女の瞳から透明の雫がこぼれる。
「あ、あれ……おかしいな。嬉しい、はずなんだけどな。どうして、悲しいんだろう」
センリはひどく困惑していた。だが、俺にはセンリの気持ちが分かった。彼女の記憶を半分ももらったのだから。
「センリはそれでも、バンリのことが、弟のことが大切だったんだな……」
センリはそういう人間なのだろう。どこまでいっても、他人のことを大切に思える人間なのだ。
全ての人間の身体の中には寄生菌がいる。しかし寄生菌は人間から栄養を吸う代りに、殺菌や食物の消化を助けてくれるのだ。【完全依存】、確かにセンリに相応しいスキルだった。
俺はセンリの身体を押して、浮遊する卵子の目の前にまでたどり着く。それはとても巨大な存在だった。卵子が直径一ミリだとしても、精子はそれよりもずっと小さい。
長い道のりだった。実際には一日かそこらの時間だったのだろう。しかしその間には、あまりにも多くのことがあった。
俺はセンリが泣き止むのを待つ。気持ちの整理は必要だった。長年一緒に暮らした家族が死んだのだ。たとえそれが歪な関係であったとしても、家族には変わらないのだろう。少なくても、センリにとってはそうだった。
だから俺は迷った。これからセンリに言う台詞は、彼女にとっては特別な意味を持つものだからだ。
「……ありがとう。私を、助けてくれて」
センリは泣き止むとそう言った。俺は、彼女の声を聞いて、迷いを断ちきった。
「センリ。俺の、お姉ちゃんになってくれ」
センリはまた瞳をうるませると、堪えるように唇を噛んだ。
「それは、できないわ」
「……どうして?」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、受精できるのは一人だけ……それがこのレースのルールなのよ。嘘を言って、ごめんなさい」
だから、とセンリは言葉を継ぐ。心残りなどまったくないような口ぶりで、言ったのだ。
「あなたは生きて」
あまりにも澄んだ目で言われ、俺は息を呑む。俺は引くわけにはいかなかった。
「どうして、どうして一人しか受精できないんだ……バンリだって、最後に兄弟に、とか、そんなことを言っていたじゃないか!」
「それは、あなたに記憶がないことを私から聞いていたからよ。だからデタラメを言っただけ。そもそもの問題はもっと簡単なの」
センリは俺の目を見て、俺を逃がさなかった。目をそむけることを許さなかった。
「一つの卵子には、一つの精子しか受精できないの。双子はその一つの受精卵がたまたま二つになるだけ。精子が二つ入っているわけではないわ」
俺はうつむく。考えろ! 考えるんだ! ここであきらめたら、センリが……センリが!
「…………なら、卵子が二つあれば、いいんだろ? それなら二卵性双生児に、なれるだろう?」
単純な手だが、俺にはそれしか思い付かない。そして俺にはそれを可能にするスキルがあるはずだ。
【善意性分配】――最後にもう一度だけ、俺のエゴを押し通す。レースのルールなんて知ったことか。卵子を、二人に分配する。
しかし。
―エラー、スキルレベルが不足しています―
脳裏に無情の宣告が響いた。スキル、レベル……。そんなものの上げ方なんて分からない。
だが、どうしても今そのレベルを上げないわけにはいかなかった。
どんな犠牲を払っても構わなかった。
俺はスキル説明文をもう一度確かめる。どこかにスキルレベルの上げ方について記載がないか、確認するためだ。
【善意性分配lv1】万物を抽出し、分配するスキル。ランク・エクストラ。本スキルには様々な制限がある。制限の緩和はスキルレベルに依存する。スキルレベルは他のスキルを本スキルに食べさせることでのみ成長する。
なぜか文が追加されている……理屈は分からない。が、しかし、今はそのことを気に留めている場合ではなかった。俺は今、33万ものスキルを有しているのだ。センリのためなら、いくつのスキルを支払っても惜しくはない。
「ま、待ってよ!」
となりからスキル・ウィンドウを見ていたセンリが、俺の考えを見抜いたのだろう。遮るように言った。
「これから生まれる世界はきっとたくさんの困難が待っているわ。一人一人にスキルが用意されているくらいだもの。そのスキルをあなたは無駄にするべきじゃない」
センリが理屈を並べる。理性では正しいと思った。だが心から言えることもある。
「無駄じゃない」
―約30万のスキルが強化に用いられた―
許可を下すと、スキル群が古い順から一瞬で消失していく。そして強化が終わると、そこには輝くlv99の表記があった。
【善意性分配lv99】である。俺はスキル説明文を読むこともなく、再度念じた。卵子の、希望の分割を。
俺はもう一度言う。必要だったら、何度だって言うのだ。
「センリ。俺の、お姉ちゃんになってくれ」
「私なんかでいいの?」
センリが俺に問う。答えるのに、俺は悩む時間を必要としなかった。
「センリがいいんだ」
俺とセンリは一緒に卵子に触れる。暖かな鼓動を感じて、そこに潜り込む。
俺とセンリは姉弟となった。
途端に意識が薄れていく。とてつもない安心感に包まれる。最後に見えたのはセンリだ。
センリの笑顔だ。それは彼女の記憶の中でも、とても貴重な――心からの笑顔だった。
一章を終わりまで読んで頂いて、本当にありがとうございます。