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カタナクション  作者: 竹尾 練治
第一章 剣帝再臨
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第9話 ヤタガラスの魔道士

 荒野に佇む男が二人。

 その手には輝く白刃を携え、互いを鋭い眼光で睨みつつ、じりじりとにじり足で間合いを詰める。

 石火が弾けるように二人は駆け出し、一瞬の交錯の間に白刃を交え、敗者はどう、と地に臥せる――。

 

 時代劇などでよく見る剣豪同士の勝負の結末は、概ねそんな形で描かれる。

 剣の勝負の決着は、時代劇のように斬り合った結果として訪れるものだと、多くの人々は信じているようだ。

 だが、俺は知っている。斬り合いとは、勝負の決着の後に訪れるものだということを。

 斬り合いとはあくまで、間合の奪い合いや(せん)の取り合いといった、水面下の攻防を積んだ帰結でしかないことを。

 丁々発止のちゃんばらの末でしか勝ち負けを決められないのは、二流三流。強者の戦いは、常に対峙した瞬間から始まっている。


 姿勢体格重心視線、相手を目にした瞬間に雪崩れ込んでくる情報と、言語化できない直感が告げる。眼前の男は強い。

 竹刀を合わせて、一声、二声。相手は挑発的な目付きと、細かな運足でしきりに俺を誘うが全て無視。

 肌が粟立つような心地良い時間。猫科の動物の前足のようにゆらりと泳がせる右足はブラフ。

 鎌首を(もた)げた蛇のように弛緩した剣先は、隙あらば即座に俺の体に喰い付くだろう。

 男の身長は、俺より一回り低く、その体は細く引き締まっていた。

 長さなら俺に分があり、重さでも俺に分がある。男の狙いは、恐らく後の先。

 俺が動いた瞬間に、己の間合いに入った小手の先を打突するか――あるいは、一気に割って入って面まで竹刀を伸ばす気かもしれない。

 迂闊に入れば食いつかれる。

 遠距離からの跳び込みで勝負を狙おうかとするように、微かに重心を沈め、裂帛の気合を籠めて、僅か三寸ばかり鋭く間合いを詰め、跳びこむ寸前で足を止めた。

 ――跳び込めば負ける相手なら、跳びこませるのみ。

 果たして――相手は跳んだ。脳内で予測していたであろう、俺の未来位置へ向かって竹刀を振るう。だが、遠い。決定的に遠い。跳ぶ寸前に歩を止めた俺には、男の竹刀は三寸届かない。

 誘い出すつもりの相手に誘い出された失策に、男は唇を噛む。

 俺は今度こそ全身で跳び込み、一気呵成に繰り出した竹刀を男の正面に叩きこんだ。


  ◆


「これで16人抜きか」「なんだ、あの大男は」「遊歴のエメンタール人だとよ」

「誰か、あいつを止めて見せろよ、レディコルカの沽券(こけん)に関わる」

「第三憲兵隊の奴らは最近どうしたんだ?」「特別任務が何とか言ってたな」

「セギュール隊長を連れて来いよ、あの大男をどう畳むのか見てみたい」

「あの大男、セギュール隊長の口利きでここで稽古してるらしいぜ」


 遠くで交される雑談の端々が耳に飛び込んでくる。

 仔細は判らないが、どうやら俺の噂話をされていることと、あまり歓迎されていない程度のことは理解できた。

 どうやら、国王との会談が始まるまでには準備の時間が随分と掛かりそうなので、少し稽古場で汗を流さないかとボジョレに誘われたのが、二時間程前の話だ。

 王宮生活で運動不足に参っていたので、一も二も無く飛びついたが、驚いたのは、レディコルカの稽古場が日本の武道場に酷似していたことだ。防具竹刀の類までそっくりだった。防具を身につけ、黒髪のエメンタール人と紹介してもらい、地稽古に潜りこむことにした。まだ言葉の不自由な俺だったが、稽古に参加するだけなら、最低限の言葉さえ判れば足る。

 細部に違いは見られるが、この国の剣の稽古は、日本の剣道に酷似していた。

 

 考えてみれば、これは恐るべきことである。

 義太郎さんがレディコルカに伝え広めた日本の剣技。スティルトン軍を相手に無双を誇り、数えきれない首級(しるし)を上げたと伝え聞くが、元来、義太郎さんは一介の剣道家でしかなかった筈だ。当時のレディコルカの民に剣の教えを乞われた義太郎さんは、まずは自分が習った通りの方法で剣を教えようとしたのだろう。あり合せの材料で袋竹刀を作り、練習用の防具を試行錯誤し、独立戦争に勝利した後には各地に道場を設立したと国史には残っている。

 レディコルカは軽工業に優れた国である。義太郎さんが再現させたという防具竹刀は、細部に意匠の差異はあるものの、機能としてはほぼ完全に日本の剣道具を再現していた。

 しかし、それは最早300年近くも前の話だ。

 300年前。日本で言うなら、享保の改革などをやっていた時代だ。

 古来から続く伝統芸能、秘伝の古流剣術、などというキャッチフレーズはよく耳にするが、真実300年間も変化せずに伝承を続けられてきた伝統芸能や古流武術が、一体幾つあるだろうか?

 現代日本に継承されてきた伝統武術の数々も、長い年月の中で変質したり形骸化したものが数多くある。

 300年間の長きに亘って、頑なに義太郎さんの伝えた剣技を継承してきたこの国にとって、剣の訓練とは、軍事教練の一環であると同時に、「神事」であったのだろうと想像すると、そら恐ろしい思いがした。


「あ、セギュール隊長――キヌ大老まで!?」


 俄かに稽古場が騷ついた。この道場にキヌが訪れるのは異例のことらしい。上席に案内されるのを軽く辞して、ボジョレは俺に声をかけてきた。


「この道場の者達はいかがですか?」

「いや、全く、見事な道場だ。それにしても、ボジョレ、君達は相手をしてくれないのか?」

「我ら第三憲兵隊は、城の要所とこの道場の警護の任に就いておりますれば。もうじき、正義様にもご満足して頂ける相手をお連れしますので、暫しお待ちを。お手空きならば、お戯れに、我が愚妹にも一手ご指南願えますか?」


 馴染みの妖精は、今はキヌに預けてある。妖精――揚羽(アゲハ)は、意思の疎通などまるで不可能な存在かのように思っていたが、昔馴染みだからだろうか、キヌの言葉にはある程度従うようだ。いつも会話の練習に付き合せているボジョレ達とは、揚羽の通訳抜きでもかなりの会話が成り立つようになっていた。キヌの教えの賜物である。

 ボジョレの指差した方を見れば、防具一式を纏ったバルベーラが、恥ずかしげに竹刀を握っていた。白無垢の胴着に、その髪と同じ色の、朱塗りの胴が鮮やかに映えた。

 ――バルベーラの剣は、先日の彼女とは別人かと思う程に、遅く、鈍く、欠伸が出そうになる程に精彩を欠いていた。

 迷いに濁った打ち込みを鎬で流し、戒めを籠めた突きを喉元に叩き込む。

 軽く咽ぶバルベーラの耳元で、意地悪げにそっと囁いた。


「俺を殺そうと斬り掛かってきた時の勢いはどうしたんだ?」


 面金越しでも、彼女の顔が青褪めるのがありありと見えた。


「あの時は見所のある剣士だと感じたんだけどな~、この様子だと見込み違いかな?」


 青褪めていた顔が、(たちま)ち羞恥に血色を取り戻した。バルベーラは大きく腹に息を吸い込み、俺を目を据えて、


「……もう一手、ご指南をお願い致します」


 と頭を下げた。

 瞬時に彼女の纏った逡巡混じりの緩みが嘘のように消え去った。剣気総身に満ちた立ち姿は、別人かと見紛う程の凛々しさだ。

 笑みを噛み殺す。矢張りこの娘は、感情によって極端にテンションが変化するタイプだ。

 軽やかに跳ね上がった彼女の竹刀は、一直線に俺の面へと伸びる。

 迷い無く、健やかで、鮮烈な剣。

 されど、感情を起爆剤とした技は総て起点が丸見えで、俺は楽々と彼女の胴を薙いで抜けた。


「ほら、気合が入るのはいいが、頭に血が上ると、すぐにそれだ。もう少しどっしり構えろよ」


 ぽむぽむと面越しに頭を叩くと、バルベーラは悔しげに唇を噛んだ。 


「正義様、もう一本――」

「悪いがバルベーラ、師匠が見えたので、お前が稽古の続きを頂戴するのはまた今度だ」


 ボジョレは、(ようや)くギアの高まってきた妹を手で制した。

 バルベーラは不満そうな顔を見せながらも、師匠、という言葉に素直に剣を引いた。


「師匠?」

「ええ。私達の剣の師です。是非正義様に一手ご指南賜りたいと申しまして。

 『師匠』とは、我が剣道師匠国レディコルカに七席しかない剣道家の最高位です。

 正義様は、どうもここの者達の技倆には退屈されているご様子ですが、師匠ならば、幾分お暇を紛らわすことも出来るかと」


 ボジョレは、実に悪い笑顔を浮かべて、慇懃に頭を下げた。

 この男、体裁としての礼こそ欠かさないが、常にこの世界での俺の境遇を(おもんばか)って、言外に対等の友人のように接してくれる。

 しかし、積み上げてみた16人抜き、ボジョレが語るような容易な勝負は一つとして無かった。この国の剣士は皆戦意旺盛にして、竹刀を真実刀の如く使う。国の威信が籠められた太刀は、熱く、重かった。

 それにしても、俺の腕は良くてもボジョレと同程度、その師とは如何なる相手だろうか? 


 思案しているうちに、師匠なる男がボジョレに連れられて姿を表した。

 やや短身の、樽のような印象を受ける小太りの中年男性だった。老熟した気配を感じるが、老人と呼べる程の齢には至らず、脂ぎった好戦的な雰囲気を仄かに残している。

 一礼を交わして竹刀を交える。

 鋭い掛け声と共に、叩き付けるような剣気が、俺の全身を打ち据えた。

 剣先の取り合いを楽しもうともせず、猪のような体躯をのしり、のしりと進ませて、俺の間合いにずかずかと入り込む。


『正義ぃ、間合いの取り合いってのは、陣取り合戦じゃ』

 

 幼い頃、信次郎爺ちゃんは、竹刀の先を交えて、そう語った。


『剣先が互いに一寸交わっていても、それが相手に攻められて交えた一寸なら相手の陣地、お前から攻めて交えた一寸ならお前の陣地じゃ――』


 俺の剣先を意にも止めず、こちらの陣地を削りつ攻め進む。

 今まで立ち合ってきた幾人もの達人と同じ、紛れもない強者の歩み。

 俺は奪われた間合いを取り戻さんと、一寸でも前に出ようと試みるが、床に足指を這わせる寸先に、男は面に跳んだ。

 その体躯からは想像も出来ないような軽やかな動きの、()し切り気味の面を喰らい、樽ような太い体をが俺の胴に叩き付けられた。

 !?

 両足が床から離れた。97kgの俺の体躯が体当たりで浮かされるのは、久方ぶりのことである。

 浮遊感は一瞬、されど、残響のように尾を引く驚愕の中で、俺は喉元に腰の入った粘りある突きを喰らってたたらを踏んだ。

 面金に細切りにされた視界がぶれた。いつの間にか、この道場で稽古していた筈の男たちは姿を消し、上席に残るはキヌとセギュールの兄妹のみ。ボジョレの不敵な笑みが視界の端にちらついた。

 何が、『お暇を紛らわすこともできるかも』だ。こんな怪物のような相手を連れてきて。あいつは結構食えない男であるが――本当に、有り難い友だ。

 反閇(へんばい)を踏むように足を鳴らし、崩れた体勢を立て直す。

 出小手を盗むような小技を使うのが恥ずかしくなるような堂々たる剣風。こんな異世界にも、これ程の剣道家がいるのか。驚愕と歓喜を綯い交ぜにして、先の返礼とばかりに突きを返す。

 無論、崩れてもいない相手に不十分な突きが通用する筈もなく、鎬で流され、相撲の如き体当たりを喰らう。この男の使う剣は至極シンプル、面に振り下ろすか突くの二択のみ。されど、その柔らかな剣捌きからは、派生する無限の技をありありと想像できた。

 横に捌く。竹刀を巻き上げて小手を盗む。技の選択肢は無限にあった筈だ。しかし、この男の剣は、何とかして真っ直ぐ正面から打ち込んで勝ってみたいという、半ば脅迫観念に近い、抗し難い思いを抱かせるような奇妙な魅力を湛えていた。

 簡素にて朴訥、されど男を魅了する、(おとこ)の剣。

 その剣先に誘われるようにして飛び込めば、俺の竹刀は拍子抜けする程あっさりと男の面を打って抜けた。


【うむ、参りましたぞ。流石は切畠の御血族。何とも素晴らしき御面頂戴、真に光栄に御座りまする】


 男は、野太い声でそう叫ぶと、恭しく俺に頭を下げた。

 その言葉の意が脳内に響いたのは、肩に座った揚羽の仕業か。キヌも通訳に膝を寄せる。

 掌で味わった僅かな達成感と、加減されて一本譲られたという失意と屈辱。

 礼式を終えて面を外すと、男は膝を寄せ、黒々とした髭に覆われた顔いっぱいに笑顔を浮かべて見せた。

 

【いやあ、実に清廉にして実直な剣、感服致しましたぞ。剣帝陛下に稽古を頂戴するという餓鬼の時分のからの夢が叶ったようで、少々粗忽な技を使い過ぎましたな。ご無礼、しかとお詫び申し上げまする】

「いえ、こちらこそ。流石はこの国の剣道師匠。私如き足元にも及ばぬ見事なお手前でした。私の未熟さ故に大叔父義太郎の名を汚したようで、忸怩たる思いです。良ければお名前を伺っても宜しいでしょうか?」


 男は、ボジョレ達に頷きを送ると、にっかりと白い歯を見せた。


【あちらの弟子達が御世話になったそうですな。レディコルカの剣道師匠――並びに、国王などをやっております、マルゴー=レディコルカと申しまする】


 口をあんぐりと開ける俺に俺に、国王――マルゴーは、不器用な日本語で語りかけた。


「オメニカカレテ、コウエイ、デス、ドウゾ、ヨロシクオネガイ、シマス」

 

 返答に詰まって困惑する俺の肩を、マルゴーはそのぶ厚い掌で叩いた。


【道中で幾らか勉強したのですが、覚えられた神聖言語はこっぽちでしたわ。国王として堅苦しい話もありまするが――ま、おいおいエメンタールへの道中でお話致しましょうか、親王陛下】


 マルゴーは、そう言って豪放に笑った。国王という途轍もない地位にまるで似合わぬ、気安な態度で話しかけてくるこの男に、俺は奇妙な親近感を抱いていた。


  ◆


【レディコルカの王というのは、結構な閑職でしてな。

 偉大なる剣帝陛下が身罷られた後、玉座を空のままにしておくのは口惜しいという声が上がりましてな。元々、この国の王位は領主ボルドーより剣帝陛下へ正しく禅譲(ぜんじょう)されたものであることは、国民誰もが認めておりましたが――それでも、何時(いつ)か新たなマレビト様がこのレディコルカに天降(あまくだ)られる日まで、民より選ばれた仮初(かりそ)めの王が玉座をお守りすることになりまして御座りまする。

 民が求めたのは、剣帝陛下の如き、貴く強き王でした。剣帝陛下亡き後の最初の王は、陛下の遺影の前で行われた御前試合の優勝者だったと伝えられておりまする。

 王を(さだ)めるのは、剣帝陛下の定められた、民による投げ票ですが、選ばれるのは戦での武勲を挙げたものや剣の試合の優勝者ばかり。レディコルカの王たるもの、武に秀でていなければ勤まらぬという思いがあるのでしょうなあ。

 お陰で、王の代替わりの度に貴族は色めき立って剣の稽古を始め、玉座に就くのはやっとうの腕ばかり達者で(まつりごと)に疎い粗忽者ばかり、内政に関しては専ら大臣や摂政に任せ、王は玉座に重い腰を下ろして難しい顔で腕を組むばかり、異国での交渉でも外務大臣の言葉に頷きを返すだけの傀儡に成り下がることも(しばしば)に御座りまする。

 (わたくし)も卑賤の身にありながら、分不相応にもレディコルカの玉座をお借りしておりまする不敬、全く以って汗顔の至りに御座りまする】


 マルゴーは、そう語って深々と頭を下げた。

 将軍や王といった名目上の最高権力者と、その国の実務上の統治者が乖離していた例は、俺達の世界の歴史を紐解いてみても、枚挙に暇ない。

 剣技に優れたものが王位に就く。それは義太郎さんが目指したという民主政治とは掛け離れた蛮族の志向であるかのようにも思えたが、考えてみれば、俺達の世界で自由主義国家の最先端を気取っていたアメリカ合衆国でさえ、大統領就任者には女性は居らず、つい最近までは黒人大統領は唯の一人さえ存在しなかった。王位は象徴的存在らしいので、存外、この国なりに適正公平な選出が行われているのかもしれない。

 しかし、レディコルカの王位について自嘲気味に語ってはいたが、眼前の猪首の男はどう見ても単なるお飾りの暗君とは思えない。この男――マルゴーの顔は、長らく、重責とプライドを背負い続けてきた堂々たる男の顔だった。

 どう返したらいいものか。馬車の車窓から街道を覗けば、遠くの農家の庭先で、子供達が庭に打ち立てた棒杭を熱心に左右から打ちつけていた。示現流の立ち木打ちのような稽古か。


「この国の方々は、本当に剣がお好きなのですね」

【当然に御座りますよ。剣帝陛下より賜った剣技を伝え広めております事こそ、我がレディコルカが剣道師匠国たる由縁(ゆえん)に御座りまする故。道場稽古に、居合の稽古、組み討ちに(やわら)に据え物切りに、野良稽古。時には、紅白の軍に分かれて、大将の首を獲り合う戦稽古も行っておりまする。

 この国の男児は御伽噺に剣帝陛下の御偉業を聞き育ち、五つ六つの稚児の時分よりちゃんばら、相撲を競うて遊びまする。

 とは言えど――伝説に伝え聞くスティルトンとの大戦(おおいくさ)が終わって、早300年、概ね天下泰平の世の中に御座りました故、達人などと呼ばれて天狗になっている愚か者は数え切れない程居りまするが、真実その刃を人の血に塗らした経験のある者は稀に御座りまする】


 まあ、剣は抜かぬに越したことなし、との陛下のお言葉を思わば、それも又善(またよ)し、で御座りますがな――そう続けて、マルゴーは愉快げに腹を揺らして笑い声を上げた。

 追従して笑いを上げようとしたが、喉から漏れたのは乾いた空笑いだけだった。

 この国の、剣に対する執着は、異常だ。如何に剣帝・義太郎の偉業が遺ろうと、この国の暦で既に死後300年を数えている。レディコルカでは、未だ日本刀が本来の用途、戦道具として用いられている。同時に、この国では日本刀とそれを用いる剣技は、一種の宗教的信仰心の対象でもある。勿論、十字軍が剣の柄を好んで十字架状にしたように、武具が宗教的信仰心が籠められることは、全く珍しくは無いが、この国は――どこか、それが、常軌を逸しているようにも感じる。


「正義さま、お顔の色が優れませんが、お気分など悪くされてはいませんか?」


 通訳として同席しているキヌが、俺の感情の機微を察して案じるような声をかけた。


「あ、ああ、馬車の旅というのは初めてだからな、少し酔ってしまったかもしれない。

 少し、馬車を止めて休憩して貰えないか?」


 あからさまなその場凌ぎの嘘だったが、キヌは俺の顔色を察して頭を下げ、馬車の幌を潜った。

 マルゴーと二人、街道傍の畦を踏んで、背筋を伸ばす。


【正義親王陛下、この国は、如何ですかな?】

「良い国です。豊かで――こんな田舎でも、子供達が元気に遊んでいます」

【衣食足りて礼節を知る、何より先に民を餓えさせぬことは、慈悲深き剣帝陛下の偉大なる方針に御座りまするよ】


 マルゴーを、髯に覆われた頬を吊り上げ、ニッカリと笑った。


【この国の国王は、就任時にキヌ大老より剣帝陛下の遺された(みことのり)を授かりまする。同時に、(わたくし)はキヌ大老より、実際の陛下はどんなお方であったか、どのような国を目指されていたか、その赤心(せきしん)をお聞かせ頂きました。正義様、貴方は誠実にして質実剛健、(まさ)に伝え聞く剣帝陛下そのものの御人柄に御座りまする】

「買いかぶりです」

【御謙遜なさるな。キヌ大老――あの御方が、あのように齢相応の早乙女の如く微笑まれる姿、拝見するのは初めてのことに御座いまする。大老は宮中ではいつもそのお顔に寂しげな笑みを張り付かせるばかりで。

 (わし)が五つ六つの餓鬼の時分、街を巡られるキヌ大老を、遠目から拝見したことがあり申した。寂しげに微笑まれるキヌ大老が美しゅう見えて、子供心に懸想したものに御座りまするよ。

 エルフという種族は心の成長も体の成長と等しく、人より遅きものと伝え聞きまする。あのような若き身空で、大老という重責、さぞ窮屈で心苦しいことだろうと、臣下には大老を案ずる者も多かったのですよ。罪悪感、とでも言うのですかな。

 本日のキヌ大老の笑顔を拝見して、胸の(つか)えが取れたような気分に御座りまする。いやはや、これも親王陛下の御人徳の賜物に御座りまするよ】

 

 マルゴーは、マレビトとしての俺に敬意を払いながらも、世間話でも語るかのような調子で、レディコルカの情勢や宮中の事情などを饒舌に語った。城内の貴族のように無闇に俺を畏れず語りかけてくる様は、流石ボジョレの師匠といった所か。

 だが、俺は未だ、己がこの国の王族と言う事実を実感できずにいた。幾ら義太郎さんの日記を読もうと――キヌやマルゴーからその伝記を聞かされようと、それは酷く現実味を欠いた神話のようなものに過ぎない。

 俺の迷いを察したのか、マルゴーはその団栗眼(どんぐりまなこ)を優しげに細めた。


【戸惑われているようで御座りまするな。エメンタールの首都ステッペンまでには遠回りになり申すが、少しだけ物見遊山、剣帝陛下の遺された偉大なる(しるし)の地を見物してから参りましょうか】


 俺を安堵させるように力強く頷き、その太く短い指で、エメンタールとの国境沿いにある深い渓谷を指した。



  ◆


「わあぁ、ここが、かの有名なクータンセの谷ですか……!」


 目を輝かせて馬車の車窓の風景を楽しむキヌの姿は、どこか修学旅行の中学生を連想させた。

 無理も無いことだろう。外出したのは数十年ぶり、国外に出たのは、義太郎さんに引き取られて以来、初めてのことだという。

 この地――クータンセの谷は、赤茶けた大地に地層の縞が駆け抜ける切り立った渓谷で、アメリカのグランドキャニオンを想起させるような威容を空に向かって伸ばしていた。キヌでなくても、歓声を上げたくなるような絶景だ。

 黒々とした針葉樹の覆い茂る山々から、何kmも離れていない筈の場所に、これほどの渓谷が存在しようとは。レディコルカの地形の変化は、随分と急激なものらしい。

 

【もうじきに御座いまする】


 もうじき。もうじき、何だと言うのだろうか。ここのところ、キヌ達との会話の練習に時間を割かれて、中々義太郎さんの手記を読み進めることが出来ずにいた。

 クータンセの谷。ここは、レディコルカ軍がスティルトン軍に対して歴史的大勝利を収め、講和を成立させた切欠(きっかけ)となった地である、とキヌから教えられていた。

 

 曰く、クータンセの谷の最終決戦。

 

 日本で言うなら、桶狭間のようなものだろうか? ここで義太郎さんが如何な采配を揮ったとしても、もう当時の様子を偲ばせるような遺物は残ってはいまい。何しろ、300年は前の(いくさ)なのだ。

 気軽にそう考えていた俺は、眼前の異様に、言葉を失った。

 欠けている。

 ほぼ左右対称に続いていた筈の、グランドキャニオンの如き渓谷の右側が、途中から袈裟掛けに斬り落としたかのすっぱりと欠けている。

 磨き上げた鏡面の如き水平面が、どこまでもどこまでも彼方まで続いているその地形は、明らかに自然の地形変化では生まれ得ない奇形であった。かと言って、軽く10km以上は続いているだろう水平面を、誰が、どんな目的で作ったのかは見当もつかない。俺達の世界でこれを再現しようとしても巨額の資金と時間が必要だろうし、ましてこの世界の人間達が、この断面を作成するのにどれ程の労力を費やしたのかは見当もつかない。

 日本にも奈良の天乃石立神社に、柳生宗巌が修業中に天狗と立ち合い一刀両断したという逸話を伝えられる、一刀石という巨石が存在する。だが、それは割れた自然石が後世信仰の対象になったものと捉えるのが自然だろう。 

 だが、これは――ナスカの地上絵やピラミッドを遥かに超えた超常の遺跡だった。


「これが……」


 キヌが、呆然と渓谷を切り裂く断面を見上げる。


【そうです、これが偉大なる剣帝陛下の遺された(しるし)、世に名高い『無限斬』の跡に御座ります】

「ちょ、ちょっと待ってくれ! これを、義太郎さんがやったって言うのか!?」

【ええ。それも、刀の一振りで。幾多の詩に詠われてし、クータンセの最終決戦。渓谷での乱戦の最中(さなか)、剣帝陛下が御腰の御剣を一振りなされば、敵の軍は忽ち真っ二つに切り裂かれ、勢い余った剣風は大地を斜めに切り裂き崖崩れを起こし、(つい)には背後に控えていたスティルトン軍二万五千人を(ことごと)く大岩の下敷きにしたので御座りまする。

 この戦の顛末を耳にしたスティルトンの上層部は畏れ(おのの)き、遂にレディコルカを独立国家として承認し、講和を結ぶに至りました。

 クータンセの谷の無限斬の跡こそ、剣帝・切畠義太郎様が唯一無二のマレビトにあらせられる証として、レディコルカの聖地として伝えられておるので御座りまするよ】


 誇らしげなマルゴーの口調は、御伽噺や伝説を語っているようには見えなかった。この、渓谷に刻まれた巨大な断面――『無限斬』は、疑いようのない史実なのだ。


「キヌ、これは、本当に義太郎さんが……?」

「はい。生前も、無限斬のお話は何度もお聞き致しました。義太郎様の偉業に間違いございません」

「……」


 俺は、遥か彼方、霞がかった地平線まで続く無限斬の跡を呆として眺めるしか無かった。

 義太郎さんも、俺と同じようにマレビトとしてこの地に流れついた、ただの人間だと思っていた。だが、地に刻まれたこの巨大な傷痕は何だ? 到底、一人の人間が為した仕業とは考えられない。天変地異が如き大災害。


 文字通りの、神の業だった。


 俺は、無限斬などという、人智を超越した技など知らない。普段使う技といったら剣道の面と小手が精々、時には畳表で試斬も行うが、こんな馬鹿げた現象が起こせる筈も無い。 

 無限斬は、俺の知る剣とは明らかに隔絶された、魔の領域の何かだった。


 キヌは、少し俯き気味でぽつりと漏らした。


「無限斬は、レディコルカを独立に導いた義太郎様の偉業に間違いございません。ですが――義太郎様は、無限斬の偉業を讃えられる度に、苦いお顔をしていらっしゃいました。

 ただ一度だけ、義太郎様が、無限斬について語られたのをお聞きしたことがございます。

 義太郎様は、仰られていました。『無限斬(アレ)は、お天道様に顔向けできぬ外法の業、我が剣道の生涯最大の過ちであった』と――」


 この話はマルゴーも初耳だったらしく、重苦しい沈黙が車中を支配した。

 

 ――義太郎さん、貴方は、一体此処で何をしたんですか?


 胸中で問えど、答えがある筈も無く、峡谷を吹き抜ける埃混じりの乾いた風が、耳障りな音を経てて馬車の幌を揺らすばかりだった。


  ◆


 さて、俺達は『(ためし)の儀』なるマレビト認定の儀式のために、一路レディコルカの隣国、エメンタールへと向かっている訳だが、如何なる理由でエメンタールまで出向かねばならないのか、そもそも『(ためし)の儀』とは一体何なのか、俺には全く知らされていなかった。エメンタール、義太郎さんの手記を読む限り、エメンタールという記述は存在しなかったのだが。

 

「エメンタール共和国は、83年前に革命によって解体された旧ブンツ王国領で発足した新興国家です」


 キヌはいつも通りに流暢に解説してくれた。83年前の建国でも新興国家なのか……。


「エメンタールは、大陸2位の広大な領土を誇っていますが、国土の大半は険しい山岳地帯に覆われ、人間が住むに適する土地は(まばら)に隔たっています。旧ブンツ王国の首都ステッペンからでは、各地を統治しきれなかった事が革命の発端でした。

 現在はエメンタールの都市部は各自治領に統治を任せる共和制を行っています。また、経済や物流に於いても、ブンツ王国時代のような無理な直轄統治は行わず、各商工労働者のギルドに委託を行い、政権はそれらのギルドで不正が行われていないかの監査と折衝を行うに留めております。

 エメンタールが、大陸一の自由国家を標榜する由縁ですね」


 何だか、公共事業の民営化のような話である。

 政治形態は、自由主義の方向を目指しているのなら、こんな異世界でも概ね似通った形に収束していくのだろうか。


「エメンタールの民は、正義さまのような黒目黒髪の容貌の者が大多数を占めますが、スティルトンのような差別思想は薄く、基本的にどんな人種であっても移民は受け入れる、としています。

 山岳地帯の開墾や探索など、ギルドから委託される仕事が非常に多いので、我が国からも出稼ぎに赴く国民は少なくありません。

 そして、エメンタールの最も大きな特徴は、未開拓の山岳地帯に非常に多く魔物が存在することです。神話で語られるような強大な魔物から、田畑を荒らす害獣レベルのものまで、多種多様の魔物が生息し、冒険者ギルドからは駆除討伐依頼が途切れません。

 我が国でも、武者修行の一環として魔物の討伐に参加する剣士も数多くいます。スティルトンの魔道士が魔道の実験に討伐に参加することもあると聞きますね。

 故に、エメンタールはこう呼ばれるのです――『冒険者の国』、と」

「冒険者の、国――」

【儂も若い頃は、冒険者ギルドで仲間を募り、幾度も魔物の討伐に参加したものでしたわい】


 マルゴーは懐かしげに髯を撫でた。

 馴染みの妖精は、マルゴーが口を開くと俺の肩に飛び移った。この地の言葉が殆ど解らない俺と、日本語が全く解らないマルゴー。誰かが口を開く度に、アゲハは言葉の解らない聞き手の肩に飛び移って通訳となる。忙しいことである。

 このピクシー、アゲハのことは懐いた小鳥程度にしか思っていなかったが、キヌの言葉には素直に従う辺り、かなり高度な知能を持った存在なのかもしれない。

 ちなみに、直接脳に語り掛けるようなアゲハの翻訳、通称『妖精(ピクシー)の囁き』は、こいつを肩に乗せさえすれば、誰でも受け取ることができた。尤も、こいつは人見知りが激しいので、俺とキヌ以外の肩に留まることは滅多に無いのだが。


【魔道士共と組むのは癪では御座いましたが、パーティーの皆で大きな魔物を追い詰めるのは爽快でしたわい。戦の終わった太平の世では、度胸を鍛えるのは魔物狩りに限りまするな】


 彼らの言葉や、義太郎さんの手記に繰り返し表れる言葉。

 ――魔道士、魔物。

 俺達の世界には存在しない、未知の力や生物が、この世界には存在するらしい。

 だが、俺は箒に跨って飛ぶ三角帽子の魔女も、火を吐く龍も一度たりとて目にしたことはない。

 牧歌的なレディコルカの街道沿いの農村を見渡す。この世界は、俺の知る世界とは違う世界というだけであって、魔法だの何だのといった超常の存在が入り込む余地はまるで無いようにさえ見える。

 ……否。

 俺は、肩に泊まって足を揺らす妖精(ピクシー)(すが)めに見つめる。この揚羽(アゲハ)と、永久の寿命を持つという、エルフのキヌ。この両名は、俺が出会った超常の存在だ。

 それでも、尋ねずにはいられなかった。


「俺はこの国に来てから、魔法?も魔物も一度も目にしたことが無いんだが、レディコルカの中では魔物が見れるような場所は無いのですか?」

【有り得ませぬ】


 マルゴーはきっぱりと断言した。


【我がレディコルカには、魔物は小鬼(ゴブリン)の一匹たりとて迷い込む間隙は無く、薄汚い魔術の焔が燈ることも有り得ませぬ。その証が、こちらに(ましま)要石(かなめいし)に御座りまする】


 エメンタールとの国境沿いの街道脇に、直径10mはあろうかという大岩が腰を下ろしていた。

 ご丁寧に、紙垂の下がった注連縄まで巻かれ、榊のような小枝と神酒まで供えてある。

 日本の古神道にも、巨石信仰は幾つも残っている。奈良の天乃石立神社や、磐船神社――何の皮肉だろうか、俺達の世界での天孫降臨の伝承の地だ――などでも、巨岩が信仰の対象となっていた筈だ。

 しかし、それがレディコルカの街道沿いにごろりと転がっている様子は、ミスマッチとしか言い様が無い。スプリンツの城で千本鳥居を見たときと同じ、出来損ないのパロディの日本文化というような印象を受けた。

 それでも、巨岩を傍を通り抜ける者は、誰しもが恭しく一礼をしてからその脇を潜る。この地でも、立派な信仰の対象であるらしい。


要石(かなめいし)は、剣帝陛下が遺された、その御霊験の証に御座りまする。剣帝陛下は、無限斬によって崩落したクータンセの岩を切り出し、悠久無限の抗魔の加護を注がれて、国境沿いの各所に配置なさいました。

 この要石を敬い奉り続ける限り、このレディコルカに魔なる力の及ぶ事なしとお誓い下さった日の事は、史書にもはっきりと記されて御座りまする】

「義太郎さまが私達にお約束下さったことは全て真実にございました。事実、それ以来このレディコルカより全ての魔物は消え去り、魔道士の杖が光を燈すことは無かったのでございますから。

 何もかも、偉大なる義太郎さまのお力の賜物でございます」


 キヌの台詞には、うっとりとした陶酔の響きがあった。

 俺は、驚愕を越えた、何か空恐ろしい思いが胸中に芽生えつつあることを感じていた。

 剣帝・切畠義太郎はこの国を打ち立てた武人だと聞いていた。徳川家康のような――あるいは、アレキサンダー大王のような武人であると。

 賞賛されて当然だろう。語り継がれて当然だろう。しかし、彼らは義太郎さんを武人というより、宗教の教祖のように崇め奉っている。義太郎さんの伝説も、武人というよりモーゼのような聖人か、或いは卑弥呼のようなシャーマンかと思わせるような、いかがわしげなものばかり。

 キヌは義太郎さんの養娘だったが、戦場でその活躍を直接見たことは一度たりとて無い筈だ。

 ならば――これらの話は、矢張り300年という長い時間の中で、義太郎さんの逸話に尾鰭が付き、神格化された結果だろう。俺は無理矢理に、過去の常識の埒内で理解出来ない事物を解釈し、無理矢理に自分を納得させようとしていた。

 だが、そんな試みは脆くも崩れ去った。

 

 要石を抜け、国境線を越えてエメンタール領内に入り馬車で進むこと数分。

 化鳥の如き奇怪な鳴き声と共に、耳にしたことの無いような巨大な羽音が聞こえた。

 馬車の窓から顔を出すと、鋸歯を剥き出しにした醜い女性の顔がそこにはあった。

 顔と上半身は人間のもの、されどその両手は大鷲の翼であり、下半身は鳥類のそれあった。

 有り得ない異形を目にして俺が硬直している間にも、衛士達はその怪物に果敢に矢を放つ。


【ああ、ハーピーですな。普段は腐肉漁りをする程度の下等な魔物でするよ。見慣れない人間の群れを見たので、様子を伺いに来たので御座いましょう】


 マルゴーの口調は、まるで道端で野兎でも見かけたかのように気軽い。

 怪物――ハーピーは、決して人間の声では有り得ない奇声を高らかに上げると、悔しげに顔を歪めて何処かへ飛び去って行った。

 ――間違い無い、この世界には、俺が今まで全く見知らぬ、何かが存在するのだ。

 


  ◆


【第一魔道士と第二魔道士が捉まらないぃ?】


 バルベーラは頓狂な声を上げた。

 不安げに周囲を見回すその表情には、隠しきれない困惑と憤りが滲み出ていた。


【まさか、こんな事態になっているとはな……】


 ボジョレは、処置無しと言った様子で面を掌で覆った。いつも冷静な彼には珍しく落胆を顕わにしている


「えーっと、つまり、どういうことなんだ?」

 

 話に全く付いて行けない門外漢が一人。

 みっともなくも、身を縮めて隣のキヌの肩をつついた。

 最近、何か解らないことがあれば、何もかもをキヌに頼ってしまっている感があり、申し訳なさが先に立つ。キヌは俺に頼られることを喜んでくれているようだが、俺としては、自分の胸ほどしかない小さな少女に何もかもを恃んでいては立つ瀬が無い。

 いつもは俺が尋ねれば立て板に水の講釈をくれるキヌだが、彼女の返事も歯切れが悪い。


「わざわざ正義さまにエメンタールまでご同行頂いたのは、(ためし)の儀に必要な魔道の起動がレディコルカ国内では不可能のためです。

 此度の儀は、(ためし)の儀とは名ばかりのマレビト騙りの処刑とは訳が違います。切畠のご皇統の正義さまを、真にマレビトであると世に知らしめる為の大切な儀であります。

 その儀を行う為の、魔道士に欠員が出ているのです」

「魔道士、ってスティルトンにいるような?」

「ええ。魔道はハーフエルフの特権ではございませんから。エメンタールの民にも優れた魔道士は幾人か存在致しております。義太郎様が天降られる前には、少ないながらも、レディコルカの民にも魔道士がいたと伝え聞きますね」


 それでも、魔道の面では、魔道師匠国スティルトンの圧倒的優位は揺るがない。キヌはそんな話を取りとめも無く俺に語った。


「……それで、どうしてエメンタールの魔道士はいなくなったんだ?」

【それが、とんでも無い話なのです!】


 憤懣やる方無し、といった表情で、バルベーラは拳を握って力説した。


【エメンタールの第一魔道士は、国家魔道士隊に突如辞表を提出し、冒険者に転身したらしいのです!

 一度国家に忠誠を誓った身でありながら、易々とそれを反故にするなんて――!

 その上、あの女が国家魔道士を辞めた理由は、フリーの冒険者をやっていた方が儲かるから、と聞くではありませんか! 魔道士などという連中は、皆、義理も忠心も持たず、金に目が眩んだ欲深い連中ばかりなのです!】


 バルベーラの言葉には、レディコルカの魔道士嫌い――というよりも、その第一魔道士個人に対する怨恨が籠っているようにも感じられた。


「……なあ、ボジョレ、こいつ、その第一魔道士とやらに怨みでもあるのか?」

【ああ、エメンタールの協力で、対魔道士の模擬戦を行った時に、散々その第一に遊ばれましてね。今でも根に持ってるようなのです】

【べ、別に私はあの時のことを怨んで言っているわけじゃありません!】


 羞恥に頬を染めて兄に言い返したが、まるで説得力が無い。ボジョレはやれやれと首を振ると、仕入れて来たばかりだという、エメンタールの内情を語った。


【ま、それにしても放置しては置けぬでしょうな。第一が国家魔道士を辞めて始めた冒険者パーティ『ヤタガラス』は、最近活動が派手になり過ぎています。

 ギルドからの依頼には、難易度によってランクが設けられているのですが、ヤタガラスが受ける依頼はSランク以上――平たく言えば、依頼だけは出ているものの、事実上達成困難なので長年放置されている討伐案件ばかりです。

 昔話にしか出てこないような魔物の首を持ち帰ってくるのは良いのですが、ヤタガラスが迂闊に手を出して敗れでもしたら、怒り狂った魔物が人里を襲うようなことにもなりかねないと、関係者は冷や汗をかいているそうです】

「要するに、寝た子を起こすな、と」

【ええ。その上、Sランク以上の討伐依頼については、達成報酬が著しく値上がりしているものもありまして。毎週のようにケルベロスの首のようなものを持ち帰られても、報酬が支払いきれないと、当の冒険者ギルドの方も困惑しているようです。

 もう十二分な働きはしてもらったので、是非ともヤタガラスの第一、第二魔道士は国家魔道士業に復帰して欲しい、と……】

「出すぎた杭は鼻摘み者って、ことか。身も蓋も無い話だな。

 ――それにしても、その第一魔道士は随分と凄い奴なんだな。そんな危険な依頼を易々とこなしていくなんて」


 バルベーラは眉根を寄せた。


【いえ……それが、話がおかしいのです。Sランク以上の討伐依頼案件で実質的に放置されているものは、過去のスティルトンのSランク以上の精鋭魔道士が挑んでも生きて帰らなかったようなものばかりです。

 『ヤタガラス』は、Sランクの第一とⅢAランクの第二、それから数人の補佐しかいない小さなパーティだと聞きます。その人員で、スティルトンの七師匠級の魔道士でも難しい討伐任務を、連続して達成できる筈もありません。

 ギルドには、ヤタガラスが偽造した証拠物を持ち込み、討伐の完遂と偽っているのではないかと疑問視する声もあります】


 私も、個人的にはその意見に賛成です、とバルベーラはつけ加え、ボジョレに拳骨を落とされた。


【第一魔道士の行方が判明しました!】


 丁度良く、続報が舞い込んだ。

 だが、その報告を聞いた一同は、呆れかえったように口を開けた。

 矢張り、話に付いていけない門外漢が一人。


【よりにもよって、マンティコアの討伐に出かけた、だと!?】

【ほう、御伽噺の怪物では無かったのかね?】

【いえ……目撃例はあるようですね。最後が35年前ですが】


 話に入れない俺は、情けなくもキヌの肩を引いた。


「えーっと、盛り上がってる所悪いが、マンティコアって一体何だ?」

「マンティコアはエメンタールの山奥に棲むとされる神話級の魔物です。獅子の体に蝙蝠の羽、人の顔と蠍の尾を持つとされています。

 伝説によれば人肉を好み、一度(ひとたび)目覚めれば一つの町が滅びるまでその空腹が治まることが無いとありますが、その真偽は定かではありません」

「ほう……」


 恐ろしい話だ、と漫然と感じはしたが、先のハーピーを目にしても尚、キヌの語るマンティコアという怪物に対する薀蓄は、丸きりお伽噺ような絵空事としか思えなかった。

 俺が今まで山で注意してきた動物といえば、猪や(まむし)が精々。近年の日本では熊を見かけるも無くなって久しい。海外の虎やワニによる被害でさえ他人事である世界で育った俺に、どうしてマンティコアなる奇妙な化物に脅える気持ちが涵養されていよう。

 この異世界は、俺には遠すぎる世界だった。

 しかし、少々の好奇心はあった。


【しかし、マンティコアの討伐依頼はⅡSランク、もしヤタガラスが失敗したら人里に神話の怪物が姿を現すことになりかねません。あの女が魔物に喰われるのは勝手ですが、近隣住民を危機に晒すなど、国家魔道士として国を守っていた者とは思えない無責任な発想です】

【距離は?】 

【ここからそう遠く無いようです。マンティコアが棲むという洞窟は割合山際に近く、深山に分け入る必要は無いそうです。近隣の平野には大きな人里はありませんが、近寄るのは容易です。

 ――尤も、ここ数十年、マンティコアを恐れて誰一人近づいたことは無いという話ですが。第一は、手頃な場所に棲む標的としてマンティコアを狙ったのでしょうが、どう考えてもヤタガラスの手に負える魔物ではありませんよ】


 バルベーラの報告を聞き、ボジョレは顎を押えて何かを熟考しているようだった。


「マンティコアか……。恐ろしい話だが、そんな怪物なら一度見てみたくもあるな」


 軽口を叩くと、ボジョレは何かを思いついたかのように重く頷いた。


【正義様、第一が見つかるまで時間も掛かりそうですので、マンティコアの巣穴の近くを見物にでも行かれますか?】

【何を言っているのですか、兄さん!? 正気ですか!? そんな、正義様を危険を晒すようなことを口にするなど――】


 血相を変えて食ってかかるバルベーラを、ボジョレは真剣な顔で制した。


【バルベーラ、お前は信じているか? この正義様が、本当に、皇統の血筋のマレビトだと】

【当然です! 正義様は、正真正銘、本物のマレビトにあらせられる尊い切畠のお血筋のお方です。私は――正義様を、信じています】


 泣き出しそうなバルベーラの瞳が、俺を射抜いた。彼女の信頼は、身の回りの世話をして貰ったこの数週間で痛いほどに実感している。

 だが、ボジョレはどうして今、そんな話を?

 マルゴーまでが、ボジョレの言葉に心底同意したかのように首肯した。


【ならば、何の問題も無いだろう、バルベーラ。

 正義様は真のマレビトにあらせられる。然れば、例え100頭のマンティコアが襲い掛かろうとも、この御方の(はだ)に毛の先程の傷さえつけることは叶わぬだろう】


 バルベーラは、震えながらも、ゆっくりと、頷きを返した。

 今の会話に如何なる意味があるのかを図りかねていた俺の腕を、キヌが小さな両手で、ぎゅっと掴んだ。翠玉の瞳を幽かな不安に揺らしながらも、彼女は俺を安心させるかのように、ぎこちない笑顔をその端整な顔に浮かべて見せた。


  ◆


 鳴り響く砲火の音は、遠雷のようだった。

 件の怪物の巣穴まで近づくまでも無かった。遠目から、黒々とした針葉樹の山の各所で、炎が立ち上がっているのが見えた。

 一抱えは有りそうな大樹が音を立てて倒れ、散発的に巨大な渦巻く炎の柱が立ち上がっては、蜃気楼のように忽然と掻き消える。炎の柱に焦がされた大樹が、ぶすぶすと熾火を燈しながら黒煙を吐き上げていた。

 山火事とも、火山の噴火とも違う、戦いの炎。鼓を打つかのような重低音が、山々の間に木霊しながら消えている。大砲でも使っているのだろうか?

 そして――この世のものとは到底思えない、奇怪で不快な咆哮。


「ァァァఒకటేァ!!!ഐഐഐޏ͂ుకਯషޏలనఒకేుਯుషషޏలనఒకేుਯుష!!!!!」


 金切り声とも断末魔ともつかないような雄叫びは、鼓膜のみではなく肚の底まで搖さぶられるようだ。

 本能が警鐘を鳴らす。危険だ。何か、途轍もなく危険なものが、この先には、いる。

 キヌが、震えながら俺の右腕にしがみついた。当然だろう。郊外に出たことすら無い彼女にとっては、マンティコアの咆哮は全く未知の恐怖であるに違いない。

 望遠鏡で戦場を監視していたバルベーラが悲鳴じみた声を上げた。


【矢張り、ヤタガラスが圧倒的に劣勢です! ⅡAランク以上の魔術を連発しながらも、マンティコアは殆ど無傷、第一と第二はマンティコアを牽制しながら撤退中です!】

【ヤタガラスが投入した兵力は?】

【現在交戦中なのは二人のみです! 最初から二人だったのか、若しくは――】

【少数精鋭で挑んだんだろう。あの女も、むざむざ仲間を魔物の餌にするような真似はしまい】


 マルゴーは、厳しい顔で戦場を睨んでいた。眉間に皺を寄せて戦況を思案するその貌からは、過去の数多の戦歴の苦労が滲んでいた。


【総員に、戦闘の準備を。ヤタガラスの尻拭いをすれば、エメンタールへの貸しにもなるだろうて。尤も――】


 ――あの小娘ども、尻尾を巻いて逃げ出したのではのうて、何か策があるように見えますがな。

 マルゴーは、そういってニカッと意地の悪い笑みを浮かべて見せた。矢張りボジョレの師匠である。

 俺達は、黒煙の匂いが漂う程の山際で、馬車を降りた。


「ァァకటేイィィィィఒకటేకటేకటేァ!! ഐഐޏ͂ుకਯషޏలనఒకేుਯుషషޏలనఒకేుਯుషァァァ!!!」


 ――獅子の体に蝙蝠の羽、人の顔と蠍の尾。

 マンティコアは、キヌが語った通りの怪物だった。だが、その異形異様の奇怪さは、彼女の語った短い言葉では到底表しようもない。

 赤い毛並みで覆われた巨大な獅子、されど、その体躯はインドゾウ程もある。常識では歩行さえ儘ならない巨獣が、猫科動物の敏捷性で険しい山道を駆けるのだ。全く常軌を逸脱している。

 その顔は確かに人間に酷似していたが、醜悪な老婆の如き貌にはヒトにある知性の光はなく、四方に向けて怨嗟の如き咆哮を放ち続けていた。

 巨大な蠍の尾は毒液混じりの針を次々と飛ばし、その一薙ぎは一抱えもありそうな樹木を容易に倒壊させる。背中には蝙蝠の羽を生やしていたが、どう考えてもあの質量をあんな小さな羽で浮かせるのは不可能だろう。その存在意義は疑わしい。


 賞賛に値すべきは、こんな常識の埒外の怪物を相手にして、冷静に撤退戦を続けている二人の女性だった。木々を盾にして器用にマンティコアの攻撃を避けつつ、一定の距離を保って炎や雷光で牽制して近寄せない。

 彼女達の戦い方は、逃走、というよりマンティコアを何処かに誘導しているかのようだった。

 マンティコアが二人を追って拓けた場所に姿を現した瞬間、地面に巨大な魔方陣のようなものが輝き、火山の噴火のように巨大な焔が立ち上がる。先ほどから見えた炎の柱はこれか。

 しかし、人間一人を容易に炭する程の焔に全身を包まれながらもマンティコアは健在だった。

 餓虎の執念で、全身を焦がす残火を振り払って、二人に向かって尚も猪突猛進を続ける。


【このままでは、マンティコアが人里に降りてしまいます! 

 あいつら、本当にたった二人であの化物が何とかなると思って挑んだんですか!】


 バルベーラの悲痛な声に、マルゴーはゆっくりと首を振った。


【伝説に伝え聞く神使の魔物、ヤタガラスの足は――三本だ】


 ヤタガラスの魔道士達は、やがて黒々した森を抜けた。その背中を追って狂相のマンティコアも続く。

 遮蔽物の無い平野では、山中で行っていた木々と罠を利用した逃走は不可能だ。

 得物を目前にしたマンティコアが歓喜の咆哮を上げる。

 だが――その目前に、幽鬼のように黒い人影が立ち上がった。

 ずっとその場で、路傍の石のように座り込んで身を潜めていたのか。

 全身を黒いローブで覆った細身の人影は、やがて、ぬらりと輝く白刃を抜いた。

 天を指すが如き堂々たる上段を構え、微動だにせずその場に腰を据える。

 ヤタガラスの二人が散開した。

 マンティコアの眼前には、黒いローブの人影が唯一人。


「ィィకటヱェェఒకటేకటేకァ!! ഐഐޏ͂ుకਯషޏలనఒకేుਯుషషޏలనఒకేుਯుషޏలనィィ!!」


 醜悪な老婆の如き貌の(アギト)が開く。その口中には、黄色く汚れた乱杭歯が並んでいた。


「ギィィィェഐޏ͂ుకਯషޏలనアアァッ!」


 マンティコアが跳ぶ。

 誰もが、蟷螂の斧の如き一本の刃で巨獣に歯向かった剣士の、一瞬先の哀れな末路を想像しただろう。

 だが――剣士の一閃が、マンティコアの顎から尾までを稲妻の如く駆け抜けた。

 よくやく生餌にありつかんとしたマンティコアは、突如としてその正中線から縦真っ二つに両断され、くす玉のように分かたれた巨獣の骸が、左右に転がって、間欠泉の如く夥しい血と臓物の破片を吹き上げた。

 奇麗な二枚に下された死骸の狭間には、刀を振り下ろした、細い人影が一人。

 黒いローブは、魔物の血に塗れて爪先から頭の天辺まで濃い真紅に染まっていた。


 戦いの趨勢を見つめていたレディコルカの面々は声も無い。

 ただ、マルゴーとボジョレの二人だけが鋭い視線で、マンティコアを一刀の下に屠り去った剣士を見つめていた。

 俺は見た、確かに見た。あの剣士はマンティコアを斬ったんじゃない。

 剣士が刀を振り下ろした瞬間、その刃が届く刹那の前に、マンティコアが真っ二つに割れた(・ ・ ・)のだ。

 マルゴーとボジョレは、間違いなく気付いている。衛士達にも、幾人か今の斬撃を訝しんでいるものがいるようだ。

 だが、今の俺にはそんな瑣事に気を取られている余裕は無かった。


「正義さま?」


 腕にしがみついていたキヌの手を優しく(ほど)き、俺はマンティコアの骸へと向かった。

 俺の背後に、無言でバルベーラとボジョレが続いた。

 マンティコアを一刀両断にした剣士は、右手にぶらりと刀を下げたまま、ぼんやりと立ち尽くしていた。

 その背後から、その血塗れのローブのフードを掴み、乱暴に引き下す。


「ふえっ!?」


 間の抜けた声と共に振り向いた剣士は、俺の予想通りの顔をしていた。


「よう、随分と腰の据わった上段を構えるようになったじゃないか。見違えたぞ」

「……マサ兄ぃ!?」


 間違えようも無い。頓狂な声を上げて慌てふためくその少女は、この世界に来てからずっと行方不明になっていた俺の又従姉妹、番匠(ばんじょう)友枝(ともえ)その人だった。

 細身の体に似合わない、重たい黒のローブ姿。

 その右手には、未だ鮮血滴る刀が握られている。


「お前の方も、色々あったみたいだな」


 ひょいと、その刀を取り上げて刃を検める。

 ――伝説の巨獣マンティコアを切り裂いたその刀は、どう見ても、居合の初心者練習用の、刃すらないジュラルミンの模造刀だった。


 



 

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