第二章 北へ(第二部)
馬車の旅を始めて四日目。
もう隣からはいがみ合う声すら聞こえてこない。
どうでもいい話をする気力もとっくに失せて、クィーゼルは隣のニリウスにもたれかかって眠っていたし、シャルローナは視線は落としていたが、背筋は伸ばしたまま彫像のように動かない。
誰もが、この時間の余りの長さに鬱々としていた。
ただ馬の蹄と車輪が石にぶつかる音が流れる中、昨日の話をぼんやりと思い出していたスウィングは、向かい側に座って外の景色を眺めている少女に声をかけた。
「エルレアは、どこか遠いところに行ったことはある?」
金色の髪の少女がこちらを見て、考えるように瞬きを一つする。
「私は……これが初めてだ。スウィングは?」
落ち着いた低めの声で、少女は答えた。
「シャルルと同じ。公務で色んな所に行ったよ」
「……どんな所に?」
まるで物の名前を訊く子供のような声音で少女は尋ねた。
スウィングは軽く目を見張った。
こんな風に言葉を交わすのは初めてかもしれない。
それは彼女が変化したのか、それとも少しずつ現れていく彼女の本質なのか。
「東にある、植物と人間が共生する街とか、水路の発達した西の街とか」
興味深げにまっすぐ見つめてくる少女の瞳にドキリとする。
吸い込まれてしまいそうな、どこまでも深い緑。
つかの間、その神秘的な色に見惚れてしまっていた自分に気付くと、スウィングはごまかすように笑顔を作った。
「……そうだね、暇つぶしに、あの街の話でもしようか」
☆☆☆
どうしよう。どうしたらいいの?
不安だけが次々に溢れてきて、抑えることができない。
広すぎる森の中を、彼女は周りをしきりに見回しながら進んだ。
さっきまで、両側には彼女の従兄たちが居た。
迷ってはいけないからと、手をしっかり繋いで。
三人の中で、彼女が一番幼かった。
どうして、こんな事に。
それは自分のせいだと分かってはいるけれど。
空を見上げた瞬間、目に入ったモノを追って、思わず一人で駆け出してしまった。後ろで、二人の自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたが。
普段の自分なら、決してしない行動。
何故私は、一目見てそれに心を奪われてしまったのか。
あの、虹色の鳥に。
しかしそれも既に見失ってしまった。
だんだん冷静になってきた頭で、彼女は考えた。
こういう時は、動かないほうがいいのかもしれない。
今頃きっと、従兄たちが自分を探しているだろうから。
耳を澄ませば彼らの声が聞こえるだろうか?
聞こえたら、それを頼りに来た道を戻ろう。
「!?」
聞こえてきたのは、何かの音。だんだん自分に近づいてくる何かの気配。
息。踏まれて折れる枝の音。わずかに漏れる低い声。これは。
(獣!!)
走り出したい。逃げ出したい。なのに、身体が動かない。
大きな木の幹の影に隠れるようにうずくまったまま、彼女は必死に目をつむり、従兄達の名を心の中で呼んだ。
(あ……)
遠ざかっていく。
再び舞い降りた静けさの中で、彼女はずっと息をひそめていた。
どのくらいの時間が過ぎたのか、彼女は新たな恐怖におびえ始める。
暗くなっていく空に、こらえていた涙が滲む。
(消えないで……)
光よ。
暗闇に何もかも呑み込まれてしまうから。
残酷な夕暮れ。彼女の願いは叶わない。
(誰か来て……)
とてもとても……怖いの。
「シャルル?」
ハッ、と顔を上げると、すぐ近くから見慣れた顔が微笑んだ。