第十章 水面の幻影(第二部)
激しく動揺したシャルローナは、バランスを崩して湖に落ちそうになる。
「……っと……大丈夫ですか?」
とっさに腕を掴んでシャルローナを引き寄せたのは、第一皇子のシンフォニーだった。
「驚かせちゃいましたか。あんまり身を乗り出していたので、危ないと言おうとしたんですけどね」
苦笑いを浮かべるシンフォニー。
「取り乱しました……」
シャルローナは平静を装おうとはしているが、顔に浮かんだ汗を隠すことができない。
「シャルル?」
落ち着いた声音が、自分の心に再び安らぎを与えていく。
シンフォニーはシャルローナの腕を放すと、「気をつけてくださいね」と言い残して、どこかへ去ろうとした。
湖面がさざめいた。
雲が月を隠し、暗さが増した。
少女の纏ったドレスの裾が揺れる。
“行かないで”
(何をしてるの……)
シャルローナは、自分が何故そんな行動を起こしたのか理解できなかった。
まるでシンフォニーを引き止めるかのように。
彼の背中の服を掴んで、寄り添うようにぴたりと頬をあてている自分。
(……誰)
身体の中に、自分ではない存在を感じた。
焦って離れたシャルローナを、シンフォニーは動じていない様子で振り返る。
その顔には、いつもとは違った、どこか淋しげな微笑みがあった。
「懐かしいですね、シャルル。まだ小さかった頃、私とスウィングが貴方の屋敷に遊びに行くといつも、帰り際に私達の背中を追ってきました。皇宮とロンド家は、そんなに離れている訳でもないのに……けれどそんな時だって貴女は、嫌だとダダをこねて私達を困らせることはなかった。何も言わず、ただ泣きそうな顔をして私達の後を追ってきた」
シャルローナは、シンフォニーから視線を逸らしたままでその言葉を聞いていた。
「妹のように可愛い存在でしたよ、あの頃の貴女は」
シャルローナはそこでシンフォニーの視線を受け止める。
襲ってきたのは、不思議な既視感。
震えていることを悟られないように、シャルローナは努めて淡々と言葉を返した。
「今は違うと仰るのですね……」
「貴女は成長しました。もう私達に手を引かれていた小さな女の子ではない。貴女は貴女の正義を得て、私も私の望みを見つけました。スウィングも昔と同じではありません」
遠い昔に繋がっていた手は、ゆるやかに解けていった。
「周りに望まれる姿であれば、ずっと変わらずに居られると……貴女はそう考えた」
変わらぬ三人で居られると信じた。
それだけが「三人」で居られる唯一の方法だと思った。
「シャルローナ」
その声には、いつものような親しみを感じることができなかった。
(遠い)
思い知る。
自分とシンフォニーの間にできてしまった、どうしようもなく遠い距離。
「時間は過ぎ去るもの。人は変わるものです。私もスウィングも貴女も、あの頃のままではいられない。時を止めるのは不可能です。それは、死者の魂をこの世に引き留めるのと同じこと。世界に歪みが生じます」
シンフォニーの言葉が、自分の中の何かを壊していく。
「……時を止められないことなど、とっくに知っています……っ」
シンフォニーを見上げた。
その視界が歪む。
「目覚めなさい、シャルローナ。幼い殻は、貴女にはもう必要ない。本当の貴女に目覚めなさい。そうでなければ……」
シンフォニーはその先を言いあぐねる。
(そうでなければ……?)
「掴まなければいけない真実も、受け止めなければいけない現実も、何も得られないまま過去に囚われてしまいますよ」
「過去とは、『いつ』ですか? 私が貴方を『お兄様』と呼んでいた頃ですか?」
シャルローナの灰色の瞳が、不安げに揺れる。
その意味を悟り、シンフォニーはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ」
その声は、何かを哀れむような声音だった。
「もっと、ずっと昔の話です」




