2.-3 悩める雨の日々
姫は肩の力を抜くように、大きく息をついて語りだした。
「前回、穂積さんのお世話になったときに事務所の社長さんに申し訳なくて、次のお仕事は絶対に頑張ろうって誓ったの。そしたら」
社長の方も、宮鷹ユウを試すような、ユウにとっては大きな仕事を持ってきていた。それは厳しくて有名な演出家の舞台だった。
ユウにとっての初舞台が、その大仕事となった。
舞台は体力も必要だ。やり直しがきかない。
ユウはスポーツジムに通いながら、その仕事に全力で向かっていた。
しかし、舞台半ばのシーンで何度やっても演出家が首を傾げているところがある。相手役もほとほと疲れてユウの愚痴を周囲に漏らしている。
先輩にも頼ってみた。しかし、演出家の真意は見えてこない。舞台まで、そう時間は残っていないし、他の仕事もある。ましてや相手役の俳優の力は強い。
ユウは焦るばかりで、前に進めなくなってしまった。
とうとう、演出家に直接伺いを立ててみたが、困っているユウの顔を面白そうに眺めて、「わからないことをよく悩みなさい」と言っただけだった。
ユウの頭は混乱し、スポーツジムにも足を向けず、大雨の中、何時間もガレージの横に突っ立って穂積の帰りを待っていたのだった。
「いい仕事もらったんですね」
僕の言葉に彼女は首を横に振った。
「荷が重すぎます」
相変わらず激しく窓を叩く雨に目を凝らしながら、僕は景色に話を戻した。
「こうやって車に乗って、自分が濡れない快適な状態であれば、僕はこういう景色も素敵だなと思うことがありますよ」
「素敵?」
「全てが雨でぼやけて色が混ざりあって、なんだかわからないけれど雨の日にしか見れない。よく、写真でみませんか?シャッターを開きっぱなしで撮影した写真。車のテールランプがラインのようにつながっている。あれも好きですが、こういうぐちゃぐちゃした灯りの色もいいと思う」
「雨の日にしか、見えない景色」
「または、泣いてる時に見える景色なのかな。僕の場合泣くことはあまりありませんが、メガネをはずしたらこんな景色です」
「そんなに視力悪いんですか?」
「はい。相当ビン底メガネですよ。夕焼けを裸眼で見たときは、色の混ざり具合が説明できないほどきれいで、驚きました」
「ふぅん」
「雨の日だったり、メガネをはずせる状況だったり、泣いていたり。そういう時にしか見えない景色もいいと思いませんか」
「いいのか悪いのか、僕はそういうぐちゃぐちゃになった姫を見れるのは役得ですね」
僕は姫が演じる役もストーリーも演出家もよく知らないが、なんとなくそういうことなのかもしれないと思った。
「姫、たくさん悩んでください」
「もう、悩みました」
「もっと、です。もっとわからないことについて考えてください。自分のこと」
「自分のわからないこと?」
「今、なんで悩んでるのか、わからないことはなんなのか」
「十分悩んでるけど」
「もっともっとです」
姫は眉間にしわを寄せて、また涙を潤ませた。
「ぐるぐると悩んでいるときにしか見えないものが、多分あるんです」
「それって?」
「わかりません」
「もう、いいです」
姫は再び涙を流した。
僕は腕を伸ばして後部座席のバスタオルを取り、姫に渡した。
「泣くのはとりあえずやめて、台風の大雨の時にしか見えないこの景色を見ておいてください。ポルシェに乗るのはこれで最後かもしれませんからね」
「どうして?」
「それは、姫が元気になるからです」
「そんなのわからない」
「僕は信じていますよ。もう自分に逃げないって決めた一か月前の姫を」
姫は黙ってタオルで涙をぬぐった。
「僕もあまり人のことは言えませんが、今の姫にできる仕事だけをこなしていると、姫は時間の速い芸能界で年齢だけ重ねてしまいませんか。少しハードルの高いものに挑戦して、僕たちに姫の可能性を見せてください。それに、これは社長さんが持ってきてくれた挽回のチャンスなんです。それを姫が自分で掴んだことを忘れないでください」
「掴んだチャンス。挽回の」
姫はタオルをギュッと掴んだ。
「さて、もう一周して帰りますか」
大雨の中、空いてきた首都高を走る車の中、二人は黙って景色を見ていた。




