6.-3 忙殺の日々
休みが明けると、僕は心軽やかに仕事をこなしていった。
少々トラブルが起きても、気持ちには常にどこかに余裕があった。
それから、カレンダーに×印をつけるのが楽しみになっていた。
仕事は何とか順調に進みそうで、二月後半には帰国できる目途もついた。
そこで、日本のプロジェクトチームにメール連絡をして、同時に久しぶりに自分の部署のマネージャにもメールを送った。
帰国の目途がついてきたこと、他のみんなは元気でいるか、そして少し不安になり、自分の席はそこに残っているか、と。
2月半ば、客先の製造ラインが試運転を始めた。
ここから先の問題については別のサービスが担当することになる。
納入して稼働させるという僕の仕事はようやく終わる。
あとは事務的な作業がいくつか残っているだけとなった。
本社からメールが届き、帰国日とフライトが決まった。
帰国はいよいよ来週だ。
金曜日、現地事務所の仲間から呼び出しがあった。
「お疲れ様、ちょっと出てこいよ。」
少し高級な日本食レストランで一緒に頑張ってきた仲間と所長が、打ち上げと送別会を開いてくれた。
仕事が終わる安堵と日本に帰れること、とにかくホッとした僕はかなり呑んだ。
酒は強いほうだが、久しぶりに気分良く呑んだので、テンションが高かった。
周りの席の日本人の客たちとも少し会話をしていると、同じ大学出身者がいて盛り上がり、大学節を肩を組んで歌いだすと、他の客も混じって大合唱になってしまった。
「穂積君にもそんな一面があるんだなぁ。」
さんざん世話になった所長に苦笑されながら、タクシーでホテルに戻ってきた。
酔っていい気分でカレンダーの今日の日付に×を付ける。そして、帰国する日に丸印をつけた。
「そうだ、姫に連絡しないと。」
僕は思い出して、いそいそと鞄からケータイを取り出した。
時間も何も気にせず、完全に酔った勢いで電話をかけていた。
数回の呼び出し音の後、留守番電話に切り替わった。
僕はうまく回らないろれつで帰国が決まったこと、予定のフライトを告げた。
「それから・・・」
そう呟いてハッと我に返る。
「何でもないです、では。」
僕は慌てて通話終了を押した。
酔った勢いで僕は何を言うつもりだったんだ。
大きく息をついてケータイを机に置くと、顔を洗いに立ち上がった。
シャワーを浴びると、酔いが醒めてきたのかそれともよくある偏頭痛なのか、目をギュッと閉じていたくなるような痛みに襲われた。
部屋の灯りをつけたままベッドに潜り込み、頭まで布団に潜り込む。
強く目を瞑っていると、だんだん目の前なのか頭の中なのか、ぐるぐると回転しているような感覚になる。外の音がやけにクリアに届いてくる。
少し怖くなった。
知らぬ国のはずれの安ホテルに一人の自分。
一握りの仕事仲間だけが僕を知っている。
外に出れば僕は一人だ。友達も知り合いも、何もない。
例えば僕の存在がふと消えたとしても、誰も何も気が付かない。
僕はなんでこんなところにいるのだろう。
何をしているんだろう。
一人で、たった一人で、仕事して、食べて、寝て、仕事して。
これで何かと結びついているのだろうか。
僕の存在は意味があるのだろうか。
よくわからない孤独な思いが膨れ上がって、破裂しそうになる。
頭がギュっと痛む。
不意に、姫の顔が頭に浮かんだ。
出発前に飛びついてきた時に見せた、いたずらっぽい笑顔。
目が開かないくらい泣きはらした顔。
爽やかな笑顔、酔っぱらった顔。
今度は胸が苦しくなってきた。
バカバカしいと分っていても、苦しくて、苦しくて、思わず言葉にならない声を上げた。
なんなんだ僕は、どうしようもない僕は。
姫、僕はもう負けを認めるかもしれない。
みっともないほど自分は姫を愛しく思っている。
いつも、悩んでいる彼女を腕の中に引き寄せて、包み込んでやりたい気持ちを抑えていた。
そう、僕は多分、最初から彼女に惹かれていた。
それを気が付かない振りをしていた。
自己欺瞞で、いい人をやっていた。
いい人でいてしまう自分に散々嫌気をさしながら、彼女の前ではあえてそのスタンスでいることで、自分を制していた。
この鍵を外したら、僕は一体どうなるのだろう。
しかし、姫は僕の「いい人」の顔しか知らないのだ。
僕は本当の自分の出し方が良く分っていない。
それも自分なのかもしれないが。