5.-3 現実逃避
月末最後の週が明けた。
僕は水曜日まで出勤をして、木、金は休みで土曜日に海外へ飛ぶ予定になった。
今週中に、姫の舞台を見に行けないことを伝えないと。
一体、どの時間に家にいるのかわからないので、電話をするのも気が引ける。かといって手紙を入れるのもおかしなものだし。
悩みに悩んで、直接、伺うことにした。
普通に、ご近所付き合いだと考えたら、コソコソ連絡を取り合うようなことはしない方がいいだろう。ご家族に要らない心配をかけてしまう。
しかし・・・。
水曜日、仕事の帰りにそのまま宮鷹ユウの自宅のインターホンを押そうとして、結局押せずに終わってしまった。
「一体何やってるんだ僕は。」
妙に緊張して、なぜかガレージで洗車を始める始末。
そして翌日。
今度こそと、昼少し前にもらったチケットを手に隣の家へ向かった。
インターホンを押す。
「・・・はい。」
男の声だ。
「隣の、穂積というものですが。」
「え!」
相手の驚いているような声に、にわかに緊張する。
「今行きます!」
乱暴に玄関ドアが開くと、一人の少年が現れた。
「穂積さんですか?」
「はい。」
「姉貴に用ですか?」
「え?えぇ、まぁ。」
「ポルシェ、見せてもらえますか?」
「は?」
「俺も行っていいですか、ガレージ。」
よくわからないまま頷くと、少年は「姉貴!」と叫びながら家に戻って行った。
ガレージに来るんだったら、外鍵はないので家の中から開けないといけない。とりあえず、僕はそのまま家に戻ってガレージで待つことにした。
殆ど待つことなく、ガレージの扉からノックが聞こえた。
僕が中から扉を開けると、笑顔の少年が立っていた。姫はいないようだ。
「姉貴もすぐ来ます。」
そういって中に入ってきた少年は、僕の肩越しに車を見つけると歓声を上げた。
「車、好きなの?」
「あんまり詳しくないですけど、ポルシェは憧れてます!」
車の周りを歩きながら、子供のように嬉しそうに眺めているのを見ていると、自分の子供の頃を思い出す。
ポルシェやフェラーリ、ランボルギーニなど、いわゆるスーパーカーと呼ばれた車に憧れて、ミニカーで遊んでいたものだった。
「えーと、弟君、中も見てみる?」
「あ、俺、卓也です。」
「じゃあ卓也君どうぞ。エンジンはかけないでね。」
僕は彼に車のキーを渡した。
卓也は嬉しそうにまず鍵を存分に眺めてから、ロックを解除して運転席のドアを開けた。
「うわ、重い」
ドアを何度か開け閉めして音と重量感を味わっている。
2枚ドアなのでドア一枚が大きく、重い。
ようやく革のシートに体をすべり込ませて、ドアを閉めた。
それと同時くらいにガレージのドアがゆっくり開かれ、姫が顔を覗かせた。
「どうぞ、姫。」
声をかけると姫は素早く中に入って扉を閉めた。
「念のため、鍵も締めてください。」
僕の言葉に姫が頷いて鍵を回す。
「あれ、卓也は?」
僕が車の方を見ると、姫もその視線を追って弟の姿を見つけて笑った。
「ごめんなさい、急に二人でお邪魔しちゃって。」
「いえいえ、僕の趣味を気に入ってもらえるのは嬉しいです。コーヒー飲みますか?」
「あ、実はあまり時間がないので今日はいいです。」
「そうですか。」
じゃあ、すぐに本題に入らないと。
僕は少し緊張して、上着の内ポケットに手を入れた。
「姫をお呼び立てしたのは実は謝らなければいけないことがあって。」
「え?」
姫は不安そうな顔で僕を見上げた。
「これ、せっかくですが行けそうにないんです。」
チケットが入った封筒を渡す。
「・・・・」
姫は黙ってチケットを差し出す僕の手を見つめている。
「どうして?穂積さんにどうしても見てほしかったのに。」
「僕も見たかったですが、でもダメなんです。前にちょっと話したように、海外に行くことになりました。」
「えっ」
姫は小さく声を上げて口元を押さえた。
「あの、逃げるって言ってた・・・。」
「はい、半年以上海外の客先に缶詰めになって仕事してきます。」
姫は僕が差し出すチケットを受け取らず、ただ僕の顔を見ている。
その表情は不安そうな顔から、悲しそうな顔に変わってきた。
「本当にごめんなさい、姫が凄く悩んで頑張って練習してきた成果、いちファンとしても是非見たかったのですけど、その舞台の日に出発することになってしまったので。」
「じゃあ、明後日には行っちゃうんだ・・・・」
姫の言葉は最後の方は消えかかるようにかすれている。
悲しそうな顔が、また不安そうな表情に戻った。
「半年以上って、連絡先は教えてもらえますよね?」
僕は姫の視線を外して小さく首を横に動かした。
「ずっと客先の工場にいることになっていて、寝泊まりは近くのホテルになります。あまり連絡できるとも思えないし、姫からの連絡というと困ったときのご相談でしょうから、長く話せる時間は取れないと思いますから。」
姫の表情がまた悲しそうなものになる。
僕は胸が苦しくなるのを覚えながら、言葉を続けた。
「姫はこの舞台をきっと成功させて、自分に自信がついて、これからは僕なんか素人が相談に乗らなくてもやっていけるはずです。何か困ったときも、僕よりもっと仕事を良く分ってくれる人にこれからは助けてもらったり、力をもらったり、手本になってもらった方がいいと思います。」
僕はできるだけ優しく微笑みつづけた。
これをきっかけに僕が姫から逃げ出そうとしていることを悟られないように。
「そういう訳ですから、このチケットお返しします。もったいないですから誰か他の方に見てもらえるようにしてください。」
僕はもう一度チケットを姫に差し出した。
姫は渋々手を伸ばして受け取った。
そして今度は少し怒った表情に変わっていた。
僕の鼓動が少し早くなる。
「穂積さん、本当はもう私と会ってくれないつもりなんですね?」
「僕と姫の関係から考えると、もう姫の相談相手には相応しくないと思いますし、実際いつ帰れるかわかりませんから。」
「うそ、そうやってうまく誤魔化してるつもりでしょうけど、そのまま知らん顔してまた前みたいに何も知らない隣人になるんでしょう。」
「・・・・それって間違ってますか?そもそも僕はただの隣人です。」
「私にとって大事な人です!勝手にいなくなるなんて決めないでください!」
僕は黙っていた。
大事な人って、ただの相談相手ですよね。
いい人、都合のいい人なんですよね、きっと。
分ってるから、言わないでください。
もう、その言葉はこりごりなんです。
「ほら!真顔になった。本当は海外出張を理由に私からうまく離れるつもりなんでしょう!どうせ私みたいなわがままな女優なんて迷惑だって思っていたんでしょう!」
「違います、迷惑だなんていうことはないんです!」
うっかり、僕も姫の興奮に引き込まれてしまった。
「じゃあなんでケータイも何も教えてもらえないの?」
「それは、だからもう相談相手としての僕は必要ないはずだからです。」
「相談相手じゃなくて・・・・!」
姫はそこで自分の言葉にハッとしたように息をのんだ。
僕は今すぐに逃げ出したかった。
そうしないと、姫を抱き寄せてしまいそうだった。
そして、今の言葉の真意を問いただしてしまいそうだった。
聞いたところで、無意味だ。
『ガウウウンッ』
その時、突然車から爆音が発せられた。
「あ!」
僕は焦って車に駆け寄ると、車内にいた卓也が頭を掻きながらキーを回してエンジンを切った。
「ごめんなさーい、やっぱりエンジン音聞きたくって・・・・」
窓を下げながら卓也が言った。
「分ったよ、あとでドライブ連れてってあげるからさ、ここでエンジンかけると母親がうるさいって怒鳴り込んでくるから我慢しといて。」
「ほんと?走らせてくれるんですか?」
卓也は喜んで、そのまま窓を閉めた。
車の取扱説明書を眺めてあちこち見ている。
こちらの二人の声には気が付いていなかったようだ。
僕はほっと息をついて再び姫の方へ体を向けた。