雨夜の幻想
“雨の音がきこえる 雨が降っていたのだ”
右手で握っていた一番薄い水色の色鉛筆を机に置いて、右手で頬杖をつく。そして、窓越しに外の風景を眺める。遠くに見える民家の明かりが水滴に滲んで、ガラスを流れる雨粒と一緒に流れていく。その明度の低い風景に、蛍光灯で照らされた自分の姿が重なる。止むことのない、六月の雨。その雨音は、ほんの少しの距離しか離れていない場所から聞こえてくるはずなのに、なぜか距離感を失った、どこからでもないところから、降るように、沸き立つように聞こえてくる。
目線を描きかけの絵に落とす。A3 サイズの画用紙に描かれた青の空気。紙の左下から右上にかけて、濃い紺色から、限りなく白に近い青になるようにグラデーションをかけている。その色の密度も、場所によって少しずつ違っていて、透明な海を上から見下ろした時のように、不均一になっている。はじめは水彩画にしようと思って頭の中で構想を練っていた絵だが、いざ描くときになって、なぜか色鉛筆で書くことにした絵。画用紙の質感と、色鉛筆の優しいタッチの方が自分の描きたい物にあっているのではないかと思い、思い切って画材を変えてみたのだった。まだ途中の絵。そこには空気だけが描き込まれているだけで、対象となるものは何も描かれてはいない。登場人物の居ない物語のように、ホワイトノイズだけの映画のように。これから、何を描いていこうか。誰を登場させようか。
そう思った時、教室の引き戸がガラガラと音をたてて開いた。
「南雲さん、そろそろ時間だし、帰らない?」
美術部の顧問の平川先生だった。薄いクリーム色のカットソーにスキニーのジーンズ。傘と鞄を持っていたので、帰る途中に立ち寄ったらしい。
「分かりました。ささっと片付けて帰ります」
「今日は多目に見てあげるけど、今日は特別だからね」
「すいません、どうしても止められなくて」
「ま、夜もちょっと遅いし。気をつけてね。変な事件も起きるご時世だし」
「大丈夫です。たぶん」
「それじゃあ、戸締まりと電気、忘れないでね」
「はい」
そう言うと、先生は教室を出て行った。
時間を見ると、午後十時を少し回ったくらいだった。美術部員としてはかなり遅い時間まで残っていることになる。いつも一番遅くまで部室に残っている吹奏楽部の部員たちも、もう一時間くらい前に音楽室を出てしまった頃だ。まあ、こんな日もたまにはいいよね。そう思いながら色鉛筆のケースとスケッチブックを棚にしまう。教室の電気を消して鍵を閉める。携帯電話を半開きにしてもう一度、時間を確かめると、午後十時十分だった。この時間になると、高校前のロータリーから出るバスはもうない。仕方がない、住宅街から出ているバスを使って駅まで行こう。
携帯電話をスカートのポケットにしまい、用務員室まで歩く。廊下の電気もほとんどが消されていて、緑色の非常灯だけがぼんやりと廊下を照らし出していた。廊下にたちこめている湿気を含んだ空気はどこか淀んでいて、誰も通らないと、このまま黒いかたまりが澱になって沈んでいきそうだった。その中を、ポニーテールを揺らし、こつこつと音をたてながら歩いていく。ひっそりと静まり返った校舎は、その足音を遠くの方まで響かせながら、誰もいない空間を抱えながら眠っていた。
用務員室にある鍵掛けに美術室の鍵をかけ、下駄箱についた。埃っぽい匂いがいつもより強く感じられた。革靴に履き替えて、傘立てで傘を探す。しかし、そこに私の傘はなかった。八本の骨がある、黒色の傘で、一つの駒にだけ、白い水玉模様の入っている傘。何度か傘立てを見渡しても、そこには破れたビニール傘と、銀色の骨だけの傘しかなかった。誰かに取られてしまったのかもしれない。どうしようもない人が居たものだと、ため息をつきながら、外へと続く重たい扉を開ける。今日は、濡れて帰るしかなさそうだ。
扉を開けると、雨の降る音がつまみを回したみたいに大きくなった。水滴が木の葉に落ち、少しそこに留まってから流れる音。水たまりのはぜる音。アスファルトで舗装され、濡れた地面の立てる音。どの音も、明瞭な輪郭を持った音として聞こえてくる。その音に巻き上げられてか、青い紫陽花の植えてある花壇からは強い土の匂いがした。紫陽花が青いのも、きっとこの止まない雨のせいだろう。傘がないので、ここからは雨の中を走って行くしかない。住宅街にあるバス停までは早足で行けば十分ほどで行ける距離だ。雨がまた、一段と強く降り始める。鞄をもう一度背負い直し、携帯電話が落ちないように、きちんとポケットの中にしまわれていることを確認する。そして、その無数の透明なカーテンの中に向かい、私は走り出した。
校門の鉄の柵でできた門は閉まっていたので、その真横にあるドアを開けて学校の敷地の外へ出た。その時、顔と半袖のシャツから覗いた腕が、何か薄い膜のようなものにあたったような気がした。薄い膜のようなもの。それは人肌のように生温かく、それでいて確かな質量を持っている。寒気が走ることと、逆のことが起こったみたいだった。夏場の温まった水道水を思い出す。しかし、そんなことに長い間気を取られていては、どれだけ濡れても濡れ足りないだろう。そのまま扉をばたんと閉めて、再び夜の中へ駆けていく。
私の通学している県立高校は小高い頂上にあり、そこから家や林に囲まれた二車線の長い坂が国道まで続いている。真っ白な光をちらちらと散らす街頭を追い越しながら、坂道を走る。雨が頬を打つように降り、自分の顔が闇を切っていく。夜も遅いことがあってか、自分以外の人もなく、車も通らない。雨の音の中を自分の呼吸する音と、足がアスファルトを蹴る音、鞄の中で荷物が揺れるだけが淡々と響いていていた。
坂道と国道の交差点まで出ると、そのすぐ脇にある跨道橋の階段を上る。そこから今度は、住宅街の方に向かい、理髪店と喫茶店のあるロータリーまで向かう。空町坂口と書かれた看板と手すりの間で、クモの居ないクモの巣が水滴をまとって、輝いているのが見えた。かんかんという足音を響かせながらそれを渡り、さらに五分ほど走ったところにバス停がある。空町七丁目南、というのがその名前だ。ナトリウム・ランプに照らされ、そこには橙と黒が複雑に混じった陰影があった。ロータリーということもあり、道路の向こう側に見える自動販売機の明かりが、とても遠いものに感じられる。時刻表と携帯電話の時刻を見比べ、次のバスが車でまだ五分ほど時間があることを確認する。そして、そのバス停には待合所が設けられているので、そこのベンチに腰を下ろした。
すっかり、濡れてしまった。制服から下着、靴下まで全部だ。制服の半袖のシャツは水で半分透けてしまい、下着の色が薄らと見えそうになっていた。紺色のスカートは水を多く含みすぎて、軽さを失っていて、靴下も水につけたみたいになってしまっている。傘をもっていった人を、絶対に許さない。恨めしく空を見上げて、鞄から出したフェイス・タオルで顔や体を拭く。
十分経っても、二十分経っても、バスは一向に来る気配がなかった。臨時ダイアになっているのではないかと思い、携帯電話でバス会社を調べてみたものの、そのような記載はどこにもない。時刻表の見間違えかと思い、二、三度外に出て確認してみるも、どうやらそうではないらしい。今日は、雨が降っているからバスが遅れているのだろうか。天候を理由にするにしても、バスが二十分も遅れた経験がないにとっては、その答えは不明だった。最終電車には十分時間があるのが幸いだったが、全身がじっとりと濡れてしまっているので、とにかく早く帰って、熱いシャワーを浴びたかった。
携帯電話の充電がそろそろ切れそうだな、と思っていた時だった。雨音にまぎれて、耳慣れない音が聞こえてきた。どす、どす、という重たいものがアスファルトの地面を蹴る音。何か大きなものがこちらに向かって歩いてくる音だった。明らかに人の足音ではないそれに、私は少し怖くなった。不審者か、変質者か。いや、それではどちらにせよ人間だ。人間ではない何かがこちらに向かって歩いてくる。その時、怖さを感じると同時に、何故か好奇心も顔をのぞかせていた。知って、どうするのだろう。そう理性が反論し、恐怖が首を横に振っているのにも関わらず、何が来ているのかこの目で見てみたいという声が次第に大きくなってくる。雨の中、何かがやってくる。何が、やってくるのだろう。まるで手を引かれたように私はベンチから立ち上がり、待合室から顔を覗かせた。
竜が、こちらに向かって歩いてきていた。一匹の竜が、四つの足で地面を鳴らしながら、こちらに歩いてきていた。うなだれるようにして垂れている長い首。背中から生えた一対の深い赤色をした翼。目の上の、隈のような赤い模様。俯き、どこか寡黙そうに見える目、明かりに照らされて、複雑に輝く水色の鱗。この世界におよそ実在するとは考えられない生き物。私ははっと息をのんで、待合室の奥に身を潜めようとした。しかし、ベンチが邪魔で奥の方には入ることができない。なぜ、竜がこんなところに。なぜ、空想上の生物がこんな時間に。頭の中でたくさんの疑問符が爆ぜる。
ひょっとして、逃げ出した方が良いのではないか、という結論が頭の中で湧いた時だった。すぐ横で、どすん、という砂袋を置いたような音がした。突然の音に、思わず、ひっ、という声が漏れる。
「そんなに怖がらなくても、いいですよお」
優しい、コントラバスのような声だった。
「え?」
綺麗な声色とその少しだけ間延びした語尾に私は思わず頓狂な声を出してしまった。
「そんなに怖がらなくて、いいですよお」
鞄を胸に抱えて、壁から外を伺うように顔を出す。顔にぱらぱらと雨が降り掛かる。待合所の真横に、先ほどの竜がどっかりと腰を下ろしていたのだった。竜を間近で見るのは初めてのことだった。思っていたより、竜は大きかった。私の背丈の一.五倍ほどの高さがあり、胴体は中型のトラックほどもあった。ゲームや絵で見かけるような荒々しい様子はまるでなく、落ち着いた、とても人間的な優しさがあった。
「あなたが、いったんですか?」
「そうですよお」
「ちょっと、驚きました」
「私も、バスを待ってるだけなんですけどねえ」
竜がバスを待つ。そんな話、聞いたことがなかった。
「バスに、乗るんですか?」
「貴女だって、乗るでしょう?」
「まあ、そうですけど」
そこで、会話は止まった。雨の音が、沈黙を埋め合わせていく。薄い壁を隔てた向こう側に、バスを待っている竜が居る。自分が正気であると信じる限り、そこには間違いなく竜が居る。その確固たる説得力と、まるで現実味がないシュールな感覚。今日は、どうしてこんな日なのだろうか。そうか、雨が降っているからだ。
携帯電話のバイブが一瞬鳴った。メールかと思い、開くとそこにはバッテリー切れの警告のサインが出ていた。こんな時に限って。そうため息をつきつつ、携帯電話をしまう。その時、ふと、耳慣れた旋律が耳に届いた。音程のとれていない鼻歌。ノイズの中を縫うように漂ってくる音楽。こういう日に歌うためにあるのであろう曲。“雨に歌えば” だった。すぐ向こう側に居る竜が歌っているのだった。あんまりにも可笑しいので、少しだけ笑ってしまいそうになった。その音痴な竜を、どこか面白いな、と思った。
「バス、来ませんねえ」
竜は、二フレーズほど歌った後、まるで独り言のように言った。
「駅の方に行くバスに乗られるんですか?」
「ええ、駅の方まで行って、けれども、わたしはもっと先の方まで行きますよお」
「私も、バスを待ってるんです。けれど、待っても、待ってもちっとも来なくて」
待っても、待っても、と言いながら、この時自分が時間の感覚を見失いかけていることに気がついた。待っても、待っても。最後に時間を確認してからどれくらい時間が経っただろう。
「まあ、このまま来ないのかもしれませんねえ」
「来ないのは、困りますね」
「仕方ないので、私。歩いていきますよお。貴女はどうしますかあ?」
今の時間がわからなくなって、終電の時刻が少しだけ心配になった。
「でも、私、傘を持ってないんですよ」
「私の翼を傘にすれば良いですよ」
どういうことだろう、と思い屋根からもう一度顔を覗かせる。
竜はゆっくりと羽ばたいてみせた。ゆったりとした風が起こり、雨粒が吹かれていく。
「良いんですか。濡れますよ」
「私はもう、びしょ濡れですから、もういくら濡れても同じですよお」
何か不思議なことが起ころうとしているのを、私は感じていた。いや、もうきっと起きているのだろう。六月の神様のいたずらなのだろうか。それとも、こんな日に誰かに傘を取られてしまったり、バスが来なかったりすることと同じくらい、偶然に起こることなのだろうか。もう、どっちでもいいや。なるようになってしまえば良いだろう。そう心の中で呟くと、私は鞄を背負った。
「それじゃあ、お願いします」
夜の帰り道を、竜とともに行く。雨の降る中を、竜の翼を傘にして行く。雨は翼にあたってぽつぽつと音を立てる。竜は濡れても、それを全く気にすることなく、のしのしと歩きつづけている。その歩調に合わせて、濡れないように、その傘の下に留まりながら、歩く。翼に隠れて竜の顔は見えなかったので、こちらの様子も向こうからは見えないだろうと思い、竜の姿をじろじろと見てみる。人の手を引き延ばしたような骨格を持つ翼やその付け根。血管の透けて見える皮膜、そして輝く翡翠色の鱗。濡れてぴかぴかと光る、その小波のようなうねりを、私はとても綺麗だと思った。
「そういえば」
竜が思い出したように行った。
「こんな夜遅くまで、学校で何かされていたんですかあ?」
答えたくないのなら、答える必要もない。しかしそれでいてそう思わせる押し付けがましさもない、丁寧な言い方だった。
「教室で絵を描いていたんです」
「そうですかあ。いいですねえ、絵は」
「いいですよ。楽しいです」
「私は見ての通り、四つ足でしてね。絵は書きたくても書くことができないですよ」
そういうと、竜は、ははは、と笑った。
「筆を口でくわえてみるのはどうでしょう?」
個人的には、至極まともな返答をしたつもりだった。
「面白いこと、おっしゃいますねえ」
竜はとても愉快そうに笑った。
「そういえばあなたは、どうしたこんな時間までバスを待ってたんですか?」
竜に負けないくらい、丁寧な口調で言った。
「それはですねえ」
竜が嬉しそうに言う。
「夏の風の神様を迎えにいくためなんですよお」
「神様?」
夏の風の神様。夏の風を司る神様なのだろうか。
「そう。神様は神様です。夏の風の神様ですう」
「どんなことをする神様なんですか?」
「夏の風を起こす神様ですよお」
夏の風を起こす神様。入道雲やスイカ畑の葉を動かし、熱い熱気を運んでくる風。コバルトブルーの空を駆け巡り、嵐を呼び、麦わら帽子を吹き飛ばす風。風鈴を鳴らし、蝉を呼び、この国に八月を運んでくる風。夏の始まりと終わりを告げる風。
「きっと、素敵な神様なんでしょうね」
「ええ、それはもう素敵な神様ですよお」
「どうして、バスで迎えにいかなきゃ行けないですか?」
「昔からそうやってきたからですよお」
「昔から?」
「そう、昔からですよお」
「けれども、今日は違うんですね。バスを待たなかった」
「最近は、どういうわけかバスも時刻通りには動いてくれないみたいなんですよお。待つ分には良いんですけれど、待つのにも限度というものがありますからねえ。仲間内では一体何が起こっているんだって、いつも言ってるねすけどねえ」
「また次は、きっと時間通りに来ますよ」
「そうだと、いいですねえ」
坂道を下り、今度は舗装されたやや細い道に出る。その道の向こうには川を挟んで県道が走っており、その向こう側にはコンビニや家が見える。等間隔に並ぶ街灯で照らされた先に、一本の黒い筋が見える。高速道路の高架が走っているところだ。雨は依然として止まず、地面に一定速度を持って水を振りまいている。雨のせいなのだろうか、川を挟んだ道路には人も車もおらず、それでいて、そのまた向こうにある建物の明かりはついているのが不思議だった。皆、天気の情報を見るので忙しいのかもしれない。
「そういえば、まだお名前を伺ってませんでしたねえ」
竜が思い出したように言った。
「貴女のお名前は?」
さっきと同じ調子の、優しい声だった。
「南雲千夏っていいます」
「素敵なお名前ですねえ」
「ありがとうございます。あなたの名前をお聞きしても良いですか?」
「私の名前は……」
竜はそう言いかけると、ふと立ち止まった。つられて自分も立ち止まると、竜が上を仰いでいるのが分かった。高速道路の高架橋があと数歩先に行った真上にある。そこには深い黒が渦巻いていて、手を伸ばせば吸い込まれてしまいそうだった。
「はあ」
竜は小さく、ため息をついた。そして、二、三歩歩いて、こちらの方を振り向くと、妙に固い口調で言った。
「南雲さん、申し訳ないのですが、私とはここでお別れです」
雨が再び、私に降り掛かり始めた。
「あれ、駅の向こうまで行かれるんじゃなかったんですか?」
「そうです、けれどもあなたの向かうべき駅と、私の向かうべきはどうやら違う方向にあるようです」
「それなら、仕方ありませんね」
「別れ際になんですが、一つお願いごとを聞いては頂けませんか?」
ひどくかしこまった口調だった。
「なんでしょう?」
竜に一体、どんな頼み事をされると言うのだろう。
「別れの挨拶として、頭をくわえさせては頂けませんか。私たちのお別れの挨拶なんです」
頭を、くわえる。それに一体、どういう意味があるのだろう。
私は、改めてその竜の顔をじっと見つめた。寡黙で知的な瞳。しかし、その顎は強靭そうで、もし、力を加えすぎてしまうようなことがあれば、自分の頭はどうなってしまうんだろう。
しかし、その竜の言葉には嘘、偽りは全く感じられなかった。本当に、本当の言葉なのだと、私は信じた。
「いいですよ」
「それじゃあ、頭を下げていただけますかあ」
私は軽く礼をする形で上半身を曲げた。雨が頭の後に降ってくる。その雨が一瞬途絶えると、こめかみの部分ににほんの少しだけ力が加わった。この竜なりのお別れの挨拶。それはとても控えめで、ほんの少しだけ、温かかった。こめかみから圧力が抜けると、再び雨が頭を濡らし始めた。
「ありがとうございます。私なりの挨拶ですう」
「それじゃあ、私からも、お別れの挨拶をさせていただいてもいいですか?」
「いいですよお」
「ハグさせてください」
「どこにしましょうか」
「頭にしましょうか」
そう言うと、竜は頭を、お辞儀をするように下げた。
私は差し出されたその頭をぎゅっと抱きしめた。抱きしめたときの手応えとその頭の重みが、これが本当にお別れであることを訴えかけてくる。おそらく、たとえ、あと何日雨が降る日を迎えようと、この竜と出会うことはもう二度とないだろう。今日と言う一日は、本当に幻想のようなもので、その像はもう結ばれることは決してない。精一杯抱きしめて、心残りのないように。
私は、竜の頭を離した。
「ありがとうございました。私なりのさよならです」
「それじゃあ、お別れですね」
「はい。送っていただいてありがとうございました」
「帰るときは、この高架橋の下をくぐり終えるまで、決して振り返ってい行けませんよ」
「わかりました」
「さようなら」
「さようなら」
お別れを告げると、私は高架橋へと歩いていった。自分一人だけの足音が、雨に濡れた地面を叩く。上を見え上げると、そこには巨大な一本の黒い道路がある。それを超えるまでは、絶対に振り向かない。
後の方で、どすどす、という駆け足の音が聞こえた。そして、翼を羽ばたかせ、竜が地から舞おうとしている音が聞こえた。足音が失せ、羽ばたきの音だけが、遠く、遠くなっていく。その姿を見送りたいと思った。しかし、それは絶対にしてはいけないことだ。
あと三歩、あと二歩、あと一歩。
超えた。
私は先ほどまで竜が居たところを振り返った。しかしそこには、まるで最初から誰もいなかったかのように、雨が降っているだけだった。
私は、まっすぐに駅を目指した。
定期を自動改札機に通して、やってきた電車に飛び込む。ホームで時計を確認する時間がなかったが、車内には十数人の人が居たので、それほど遅い時間になっていないことに気づかされた。
電車を降りて改札を出る。出口には何人かの人が携帯電話を見ながら、誰かが傘をもってきてくれるのを待っているようだった。そんな人たちを尻目に、私はまた、雨に濡れる。
家に帰ると、母親はもう夜勤に出かけてしまったらしく、食卓の上には夕飯の支度と書き置きが残してあった。
“おかえり、夕飯、冷蔵庫にあります”
書き置きを丸めて捨てると、生姜焼きを電子レンジで入れ、暖めている間に、自分の部屋に行って、部屋着に着替えた。濡れたものを全部洗濯物籠の中に放り込む。
電子レンジから生姜焼きを取り出して、自分の茶碗にご飯をよそう。ふんわりと美味しそうな湯気が立ち上がる。冷蔵庫から麦茶の入ったボトルと、サラダ、ドレッシングを取り出す。少し喉が渇いていたので、コップに注いで一杯飲んだ。冷たくてのどをごくごくと鳴らしたくなるくらい、美味しかった。もう一度コップを麦茶で満たす。ラップを取って、サラダにドレッシングをかける。刻んだキャベツと薄切りにしたキュウリ、プチトマトのサラダだった。食べる用意ができたので、手を合わせる。
「いただきます」
食器を片付けると、今更ながら自分が随分と疲れていることに気づいた。体の筋肉が少しだけこわばってしまっている。幸い、湯船のお湯はまだ熱いまだだったので、そのまま風呂に入り、熱いシャワーを浴びた。そして、髪を乾かし、深い眠りについた。
次の日から、また絵を描き進めた。あの紺色から薄い蒼までのグラデーションを描いた絵の続きだった。そこに竜を一匹描き足す。暗いところから明るいとことへ羽ばたき、今にも飛び立たんとする一匹の竜。あの夜に出会った、名も知らない竜。
私は、その竜、を夏の風を迎える神、と名付けた。