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第3話

 夢心地のまま、最後の小節が終わる。歌い終えてしまえば、あとは彼女の弾く美しい調べに耳を傾けるだけだ。

  ああ、なんて真剣な横顔。それにしても、可愛いなあ……

  ピアノは歌う楽器である、という言葉がある。だから奏でられる「歌声」は演奏者それぞれでまったく違って聞こえるのだろう。如月美音の奏でるメロディーはあまりに可憐であった。まるで彼女そのものを美しく歌い上げるように。

  そんなことをぼんやりと考えているうちに、後奏が終わっていた。

「うわあ、本当にすごい! 竹本くんって、いい声してるね。私、感激しちゃった!」

  美音がくるりとこちらを振り返って言う。ただ、それだけの言葉に、奏斗は全身に電流が流れたようにびびりまくっていた。

「そっ、そそそ……、そうっ!? い、いやあ、……う、嬉しいなあ……」

  なんとも挙動不審な喜び方である。しかし、奏斗にとっては必死の言葉だった。

  学年一、いや学校一番と言ってもいいくらい、完璧に可愛くて最高な女の子。クラスも違うし、一度も話したことがなかった。特進クラスは三年間固定だから、クラス替えで一緒になるというラッキーもあり得ない。

  今、この瞬間に、ふたりで向き合って会話をしていることだけでも奇跡なのだ。ああっ、時間よ止まれ! 彼女と同じ空間で同じ空気を吸っている今このときを永遠にしたい。

「ふふ、そんな風に謙遜しなくていいんだよ。正直なとこ、去年伴奏した先輩よりもずっと上手だった。どうして今まで合唱部に入らなかったの? 竹本くんだったら、部員全員で大歓迎だったのに」

  しかも、舞い上がってしまうくらい嬉しいコメントまで添えてくれる。

「い、いや……それは」

  バーチャルの世界ですらおいそれとはお目にかかれないその完璧なまでの微笑みを前に、奏斗の声はわずかにうわずる。そして胸に浮かんだ回想は、思い出したくもないほどの悲惨なものであった。

「まあ、いいや。じゃあ、発声練習から始めようか。私のピアノに合わせて声を出してくれる?」

  幸いなことに、美音は深追いすることもなく話を切り上げてくれた。そして可憐な指先が、天使の歌声のごとき旋律を再び奏で始める。

「う、うん。わかった」

  未だ、合唱部にはいることを決めたわけではない。だけど、せっかく憧れの君とふたりきりになれるこのチャンス、少しでも長引かせたいという下心があった。

「最初は『あ』で、滑らかに。だんだん音を上げていくからついてきてね」

  ああ、なんという夢時間……!

  それからしばらくの間、音楽室には奏斗の歌声とピアノの音だけが響いていた。


 小学生の奏斗は、近所の剣道教室に通わされていた。この「通わされていた」という言い方が、すでに後ろ向きな姿勢を表している。

「男の子なのだから、なにかスポーツをやらせなければ」という両親の理不尽な意向で、本人の意思には関係なく無理矢理に入門させられていた。だが、もともと棒を振り回すチャンバラごっこが好きだったことが幸いし、通い始めてからはそれほど嫌な思いをした覚えもない。そんな感じで何年かを過ごし、中学進学時に当然のように剣道部への入部を決めた。

  経験者であったから即戦力として期待され、それなりに成果は残してきたと思う。中二の夏、三年生の引退時には部長に抜擢された。団体戦では当然ながら大将を任される。かなりの重圧であったが、部員皆の期待を背負っているのだと思えば頑張れた。

  だがしかし。

  性格的に体育会系ではなかった奏斗は、ひょんなことから躓いてしまう。どこかに詰めの甘い部分があったのだろう、後輩の数人が奏斗の言うことを聞かなくなり部活内の調和が一気に崩れていった。

  何度辞めたいと思ったことか。だがそのたびに担任であった熱血教師から「頑張れば最後に花開く」とよくわからない言葉で引き留められ、さらに両親からは「十万以上もした防具が無駄になる」と泣き付かれた。

  最後の個人戦ではベスト4をかけた試合で一本負けしたが、そのときは口惜しさよりも「もう剣道をやらなくて済む」という喜びの方がずっと大きかった気がする。

  そして、高校進学。

  剣道部部長の肩書きを持つ奏斗は、もちろん真中高校剣道部からも熱烈な勧誘を受けた。しかし、忌まわしい過去もあり、どうしても首を縦に振ることができない。そして、ここは心機一転とばかり、バトミントン部への入部を決めた。

  だが、そこでもまた新たなる挫折が待っていたのである。

  バトミントンは中学の頃に体育の授業でもやったし、そのときは周囲と比べても上手い方だったように認識していた。だが、そうであったとしても、中学の部活で基礎から積み上げてきた奴らにはどうやったって敵うはずもない。

  この先どんなに頑張ったところで、決まっているレギュラー枠には入れることはないと知り、わずか二ヶ月で退部した。奏斗の手元に残ったのは、思ったよりも値の張ったラケットとバトミントンシューズ、そして一度も袖を通すことなく終わったユニフォームだけである。

  そのあとは、うだつの上がらない面白くない日々だけが続いていた。

  クラスも運動部の奴らばかりが目立ち、文化祭も体育祭も球技大会もすべて仕切ってしまう。数少ない高校生活の楽しみも彼らに奪われ、唯一の楽しみは中学時代の仲間とのゲーセン通い。だが、それもそろそろ飽きが来ていた。

  結局は何をやっても「これ!」という切り札にはならない。時間を忘れて打ち込めるものなど存在せず、リア充という言葉からも一番遠い場所にいた。

  そんな奏斗が、今、新たなる扉の前に立っている。それは小学校の頃から「天使の歌声」と言われ、校内合唱コンクールの花形であったという彼の数少ない栄光の歴史がたどり着いた先であった。


「……ええとね、声は口から出すものじゃないんだよ。頭のてっぺんから出しているつもりでやってみて、高音は後頭部を意識するといいみたい」

  美音は一区切りつくごとに、控えめなアドバイスを与えてくれる。決して押しつけがましくはなく、心にしっとりと染みとおるような優しい響きだ。

「へえ……そうなんだ」

  今まで、発声法など考えたこともなかった。適当にやればそれなりにかたちになる、それが奏斗にとっての「歌」というものであったのである。

「でも、初めてにしてはすごく上手にできていると思うよ。テノールのパートリーダーは私と同じクラスの原田くんなんだけど、きっといい勝負になるんじゃないかな」

  合唱曲によっては各パートのソロが歌う箇所があったりするのだという。もちろん、そのようなときはパートの中で一番上手なメンバーが受け持つことになる。

「へ、へえ……そうなんだ。原田って、確か生徒会長の?」

「うん、そうだよ」

  ああ知ってる、やたらとスカしている奴だ。行事のたびに壇上から挨拶をするのだが、自意識過剰な上から目線がとても気になっている。

「私、竹本くんの声ってすごく素敵だと思う。だから、一緒に頑張ろうよ。短い期間になってしまうのが残念だけど」

  この誘いを断れる人間など果たしているのだろうか。

  即答こそは避けたものの、奏斗の心はそのときほとんど決まっていた。

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