Grim Reaper - memories
「嵐が近いか」
老人は、空を見上げた。
竹原美羽も流れの速い雲を目で追った。
「今夜は、荒れそうですね」
縁側に腰掛けた二人は、旧来の茶飲み友達のように見えた。
天気の話をし、政治の批判をして、昔を懐かしむ。そんな仲だ。ただ、美羽は老人の半分も生きていない。思いを馳せる過去のページは、ずいぶんと厚みが違った。
二人が知り合ったのは葬儀場だった。美羽は町内会の手伝いで葬儀に参加した。亡くなったのは、老人の妻である。喪主である相馬の手伝いをしたことがきっかけで、話をするようになった。
美羽はお茶の入った湯飲みを傾けた。湯気で火傷しそうになる。慎重に飲もうとしても、唇は正直だった。こんな時、猫舌が恨めしい。
「菓子でも食べるかね? 煎餅くらいしかないが」
「お気遣いなく」
「まあ、待ってなさい」
相馬は畳の部屋に引っ込み、漆塗りの菓子器に入った煎餅を持ってきた。
「いただきます」
堅焼きを手で折った。少し違和感があった。口に入れると、湿気っていた。
「この煎餅は、妻の好物だったんだ」
彼は丸のまま、煎餅を噛み砕いた。
「美味しい、です」
箪笥の上に、彼の妻の遺影が置かれていた。
「あいつは堅焼きが好きでな。わしは胡麻が好きなんだが」
「胡麻は健康にいいですからね」
器には、堅焼きしかなかった。
「あいつは胡麻が大嫌いでな。わしは、隠れて食べていたもんだよ。もう、そんなことをしなくてもいいのに、なんだか食べたいと思わなくなっちまった。不思議なもんだ」
相馬が視線を下げ、庭の植木を眺めた。鉢の土は乾き、元気がなさそうだった。
「奥様、お花が好きでいらしたんですね」
「ああ、花はわしも好きだな」
じっとりとした空気が頬を撫でた。湿度が高くなってきている。雨の兆しだ。
「手入れは、全部あいつがやっていた。かわいそうだが、いずれ枯れてしまうだろう」
植木に蜘蛛の巣が張っていた。葉には、虫が食った穴も開いていた。
「ご自分でお手入れをしては?」
「いや」
相馬は深い溜め息をついた。
「わしには無理だ。自分のことさえ、満足にできないわしには、な」
雨粒が、地面を濡らし始めた。
美羽は地面に落ちた雨の痕を見つめた。土の匂いが漂う。湿気を含んだ不快な空気が肌に触れた。
「あいつがいないと、わしは駄目なんだよ」
気落ちした老人の顔を覗き込んだ。暗い気持ちが伝染したように、彼女の表情も曇った。憂いを覚えた矢先、彼女の面に緊張が走った。
「相馬さん、気を確かに」
やにわに、美羽は老人の手を取った。
直感だった。老人に危うさを感じた。手を強く握り、意識をこちらに向けさせないと、どこかに行ってしまいそうだった。今までにも、何度かそういうことがあった。だから、ことあるごとに老人の家を訪れていた。
「落ち着いて」
彼女の声が聞こえないのか、老人は前屈みになった。頭を抱えて、かすれた声が絞り出された。
「わしは駄目だ」
「相馬さん!」
美羽の呼びかけに、老人は応えない。
「あいつを殺したのは、わしなんだ」
大粒の雨が落ちてきた。
美羽は線香をあげ、手のひらを合わせた。
「先程はすまんかった」
相馬は落ち着きを取り戻していた。今も、新しいお茶を淹れてくれたところだった。美羽は前のでもよかったのだが、猫舌だからと断るわけにもいかない。
居間からガラス戸の外を見ると、雨はひどくなるいっぽうだった。天気予報は前倒しになっていた。
「お邪魔して申し訳ありません」
少し立ち寄るだけの予定が、長居になっていた。
「お嬢さんがよければ、わしはかまわんさ。こんな老人に下心はないから安心なさい」
相馬は遺影に言い訳しているようにも見えた。
「さっきのお話」
美羽は正座をして膝に手を乗せた。年配者に対する敬意を忘れない。
「ああ」
相馬は煎餅を見つめた。手を伸ばさず、眺めるだけだ。
「あいつはいつも元気そうにしていたから、倒れるまで気づかなかったんだ。医者にみせたときは、ガンも末期だ。もっと早く、気づいていればな。わしが殺したようなもんじゃないか」
彼は自分を責めていた。老夫婦の二人暮らしだ。近くにいる人間は彼しかいない。異変に気づくとすれば、夫である彼において他はないだろう。
「わしは、自分の飯も作れないような人間だからな。あいつは、入院でもしたら、わしが飢え死にするとでも思ったんだろう」
美羽は、玄関先で見た店屋物の丼を思い出した。自炊はしていないようだ。だが、今の世の中、食料に困るのはよほどのことである。スーパーには惣菜が並び、飲食店はどこにでもある。贅沢を言わなければ、食事などどうとでもなる。実際、独り身になって一ヶ月、相馬はちゃんと生活していた。
「風邪をひいたことがあったんだ」
老人は思い出を語った。
「あいつは、咳を我慢して味噌汁を作っていた。糠床を混ぜたり、茶碗を洗ったり。あのあと、わしもひどい咳が出たもんだ」
老人の笑みは、惚気にも思えた。
「仲がよかったんですね」
美羽はぬるくなった湯飲みを両手で包み込んだ。
「そうでもない。わしらは、お互い我慢していたと思う。わしは、子育てに無頓着だったし、さっきも言ったが、飯も自分では作れないしな」
「年配の男性は、皆さん、同じようなものですよ。相馬さんに限ったことでは」
育児や家事に熱心な男というのは、特異な存在ではないだろうか。最近は、共働きの夫婦が多いから、そうあるべきだと考える男女も増えている。だからといって、多数派にはならない。
「無理をさせてしまったんだ」
二度目の溜め息に、美羽は再び危険な兆候を見た。
思い詰めていた。妻の死に責任を感じ、自分を責めている。葬儀の最中から、美羽はそのことに気づいていた。週に何度か訪れるのは、相馬が心配だからだ。
「わしが全部悪いんだ」
今日は特に心が不安定だった。自分を追いつめ、苦しんでいた。喉元に刃を突きつけ、頭を垂らしているようだ。自分自身を、殺そうとしている。
雨がいけないのか。そういえば、葬儀の日も雨が降っていた。
「相馬さん……」
美羽は、彼を視た。
老人の顔には、生命の砂時計が浮かんでいる。美羽にはそれが視えた。
さらさらと落ちる砂は、人間の命を計る。砂が尽きれば、命も尽きる。相馬の砂時計には、白いひびが入っていた。時の刻みと共に、少しずつ砂が零れていた。
誰の顔にも砂時計はある。美羽は、それらから目を背けることができない。壊れかけていればなおさらだ。
「相馬さんは、さっき、お互いに我慢しているとおっしゃいましたよね。奥様のどこを我慢していたのですか」
美羽は話の矛先を変えた。暗く沈んでいってしまう相馬を引き留めようとした。
「あいつは……ケチだった。買い物で、よく何割引とか半額とか誇らしげに言っていた」
相馬の顔があがり、皺深い頬が持ち上がった。
「主婦のたしなみですよ、それ」
美羽は微笑んだ。相馬もつられて目尻を下げた。
「病院に行かなかったのは、医療費をケチったんじゃなかろうか」
相馬は冗談めかして言った。気持ちが上向いてきた。ただ、浮き沈みが激しい。あまり、よい傾向ではない。
「そうだとしたら筋金入りです」
「まったくだ」
笑顔が痛々しかった。それでも、笑っていられるのなら、笑い続けて欲しいという気持ちもある。
「あいつのおかげで、煙草もギャンブルもやらなくなったな」
子供ができてからのことだという。子育てに関わろうとしなくとも、結果的に子供の環境には配慮していたのだ。
「定年退職した矢先だよ。息子も所帯を持って、これからっていう時に、あいつは逝ってしまった」
雨が窓に吹き付けてきた。風が出てきたようだ。
「あいつがいてくれたら……いや、朝も晩も顔を会わせていたら、喧嘩ばかりしたかもしれんな。逝ってくれて、ちょうどよかったかもしれん」
強がっているのがわかる。妻をもっとも必要としたのは、相馬なのだ。
「奥様も、そう思っているかもしれませんよ」
美羽は言葉で切り込んだ。現実を突きつけ、自覚させる。亡くなった人のことを忘れるのではなく、違う世界に行ってしまったことを理解させる。
「清々しているだろうな」
相馬は、妻の死を受け入れようとしている。今までにない、良い傾向だった。
心が落ち着いていれば、人の死は理解できる。年を重ねた大人なら、最愛の人に対しても、それができるはずだ。ただ、あまりにも急に開いた穴を埋めることは、難しいに違いない。
「わしは、あいつが必要だった。死んでしまうまで、考えたことも、言ったこともなかったが」
相馬はしみじみと語った。
「あいつは、わしが必要だったのかな」
堅焼きをつまみ、煎餅の裏と表を眺めた。どちらもでこぼこしていて、同じ色合いだ。
「湿気った煎餅をよく火鉢で炙った。それをあいつがうまそうに食べた。それくらいだな、わしがしてやれたことなんて」
相馬は部屋の片隅の火鉢を見遣った。火種は消え、灰を被っていた。
「喜んでいたのですね」
「仲直りの秘訣だった」
喧嘩すると、夏の日でも火鉢に火が入った。
「お煎餅って、裏や表があるんですか?」
単純な疑問だった。今まで考えたこともなかったが、相馬が煎餅をいじっているのを見て、思い浮かんだ。
「ないさ。どっちでもいいんだよ」
「なんだか、ご夫婦も一緒ですね。表も裏もありそうで、でも、ない」
「驚いた。言われてみれば、そのとおりかもしれん。つまらないことで喧嘩して、仲直りして……夫婦なんてもんは、そんなもんだな」
「必要とか、必要じゃないとか。それも、どうでもいいのではないでしょうか」
美羽は菓子器の煎餅たちから、片隅の火鉢に視線を向けた。
「お煎餅も、今の相馬さんみたいに湿気っていたら、美味しくないですよ」
火鉢のところに行き、それを老人の前に持ってきた。
「炙って食べませんか。奥様にしてあげたように」
相馬は堅焼きを折った。良い音はしない。
「湿気っているか」
「先程のお煎餅は、あまり美味しくなかったです」
美羽は正直な感想を告げた。
「確かに、湿気っているな。すまなかった。お客人に出すような代物ではなかった。久しぶりに火を入れてみようか。うまいのを食べさせてあげよう」
「お茶は私が淹れますね」
熱湯ではなく、程よい温度で淹れたほうが煎茶は美味しい。火傷もしない。
台所から急須を持ってきた美羽は、相馬の呆けた顔と目があった。
「どうしました?」
「いや……いやいや、なんでもない」
相馬は慌てて火箸をつかんだ。若い頃の妻が戻ってきたような錯覚に陥っていたなど、図々しくてとても言えない。
「お茶が入りました」
「こちらも、うまく炙れたぞ」
適温で淹れたお茶は香りが良かった。それに負けないくらい、煎餅の芳しさが食欲をそそった。
「ありがとうございます」
「わしのほうこそ……ありがとう」
相馬は気恥ずかしそうに茶を啜った。煎餅を割る美羽の姿を、亡き妻に重ね合わせた。あの頃を思い出させてくれたことに、心の底から感謝した。
美羽は、相馬が穏やかを取り戻したことに気づいた。一緒にお茶を飲んで、雑談をして、過去を振り返り、思い出話をした。心の隙間を埋める手伝いである。そうすることで、胸に開いた穴を徐々に小さくしていった。人と話すことで、傷は少しずつ癒される。
砂時計の傷も、縮まっていた。まだ、少し砂粒は零れていたが、じきに塞がるかもしれない。
「また、来てくれるかな」
「次は、胡麻煎餅をいただきにあがります」
炭の火があたたかい風を起こしていた。