『「悪女の私を助けるなんて正気?」処刑寸前に狂犬公爵と契約結婚した結果、一年経っても離縁してもらえません。それどころか「最初から逃がす気などない」と外堀をすべて埋められていました』
冷たく湿った地下牢の石床に座り込みながら、私はふと笑みをこぼした。
「……はめられたわね。完全に」
カメリア・ローゼンバーグ。希代の悪女と噂される没落寸前の伯爵令嬢。それが私だ。
横領、恐喝、果ては国家への反逆未遂。
身に覚えのない罪状がいくつも並べられ、明日にはギロチン台の露となることが決まっている。
だが、私を陥れた犯人の見当はついていた。
叔父のバルガスと、私の元婚約者である子爵令息だ。
彼らは強欲で、幼い弟が継ぐはずのローゼンバーグの領地と財産を奪い取ろうとずっと画策していた。
私は弟を守るため、あえて『冷酷無比な悪女』として振る舞い、彼らを牽制し続けてきたのだが――ついに尻尾を掴まれる前に、強引な捏造で私を排除しに来たというわけだ。
「私が死んだら、あの子はどうなるの……っ」
鉄格子を見つめ、初めて弱音を吐きそうになったその時だった。
「随分と無様だな、ローゼンバーグの牝狐」
重厚な足音とともに、暗がりに一人の男が現れた。
燃えるような赤髪に、獲物を狙う猛禽類のような鋭い金色の瞳。そして、血の匂いを染み込ませた漆黒の軍服。
「ヴォルフガング・フォン・シュタイン公爵……『狂犬』様が、処刑前の罪人に何の御用かしら?」
戦場の悪魔。敵国の兵士を単騎で蹂躙し、逆らう者は自国の貴族であっても容赦なく切り捨てる冷酷な将軍。それが目の前の男だ。
ヴォルフガングは鉄格子越しに私を見下ろし、口角を歪めた。
「明日の処刑台の特等席を用意してもらいに来たんだが……思ったより哀れな顔をしているな。あの傲慢なカメリア嬢はどこへ行った?」
「お生憎様。死を前にして踊って見せる趣味はないの」
だが、彼の姿を見た瞬間、私の頭の中で一つの狂った計画が閃いた。
この男の権力と武力があれば、叔父たちなど虫ケラ同然にひねり潰せる。
私は立ち上がり、鉄格子に歩み寄った。
「ねえ、公爵様。私と『契約』をしない?」
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「ほう…死人の分際で俺に交渉を持ちかけるか」
「私をここから出し、妻として迎え入れて処刑を白紙にしてちょうだい。その代わり、ローゼンバーグの全財産と領地の権利はすべてあなたに譲るわ。期間は一年。ほとぼりが冷めたら、綺麗に離縁状を書いて差し上げます」
狂犬と呼ばれる男に命を預けるなど、正気の沙汰ではない。
だけど、弟を守れるなら悪魔に魂だって売ってやる。
ヴォルフガングは目を細め、私の顔をじっと見つめた。
その視線は、まるで値踏みするような、それでいてどこか……酷く熱を帯びているように感じられた。
「つまり……俺の妻になる、だと?」
「ええ。悪女と狂犬、お似合いだと思わない? 損な取引ではないはずよ」
彼はふと顔を覆い、肩を揺らした。
「……くっ、くはははっ! いいだろう。悪くない取引だ」
ヴォルフガングは鉄格子の鍵を剣柄で容易く破壊し、私を引き寄せた。
「契約成立だ、カメリア。お前は今日から俺のものだ」
その低く甘い声に、私は背筋がゾクッとするのを感じたのだった。
「……どういうことなの、これは」
シュタイン公爵邸に迎え入れられて一週間。私は鏡の前で頭を抱えていた。
契約結婚。あくまで書類上の関係であり、私は冷遇されるか、せいぜい屋敷の隅に軟禁されるものだと思っていた。
だが、目の前の現実は違った。
「カメリア様、本日はこちらの最高級シルクのドレスはいかがでしょうか!ご主人様が王都の職人を総動員して仕立てさせたものです!」
「こちらのサファイアのネックレスも、ご主人様がカメリア様の瞳の色に合わせて競り落とされたものですわ!」
メイドたちが目を輝かせて持ってくるのは、国宝級の品々ばかり。
おまけに、狂犬と恐れられる男の態度は、私の想像を遥かに超えていた。
「カメリア。昨夜はよく眠れたか?」
背後から、がっしりとした腕が私の腰に回される。
「……公爵様。朝から密着するのはやめていただけませんか。私たちはあくまで契約上の夫婦のはずですが」
「誰が公爵だ。ヴォルフガングと呼べと言っただろう。それに、俺の妻を俺が抱きしめて何が悪い」
ヴォルフガングは私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む。その仕草はまるで、主人に甘える大型犬のようだ。
「それに、君の肌は冷えやすい。俺が温めてやらねばならないからな」
「だからって、執務室にまで私の椅子を用意する必要はないでしょう!?」
「君の顔が見えないと、俺が不機嫌になって部下たちが怯えるからだ。君は俺の視界から一歩も出るな、わかったか?」
息をするように激重な言葉を吐く彼に、私はすっかり調子を狂わされていた。
(どうしてこうなったの……!? 処刑を逃れるためとはいえ、これじゃあ猛獣の檻の中に自分から飛び込んだようなものじゃない!)
だが、彼の手は大きくて温かく、その眼差しには不思議なほど安心感があった。
彼がそばにいると、ずっと気を張って生きてきた私の心が、少しだけ解けていくのが分かった。
事件が起きたのは、結婚から一ヶ月が過ぎた頃だった。
私を罠に嵌めた叔父のバルガスと、元婚約者のゲイリー子爵令息が、突然公爵邸に怒鳴り込んできたのだ。
応接室に通された二人は、ヴォルフガングを見るなり揉み手をしてすり寄った。
「シュタイン公爵閣下! 騙されてはいけません! その女はローゼンバーグ家の財産を横領し、国に反逆しようとした稀代の悪女なのです!」
「そうです!そいつは私のことも冷酷に捨てた最低の女だ!閣下の名誉に傷がつく前に、さっさと処刑台へ送るべきです!」
私はヴォルフガングの後ろに立ち、冷ややかに二人を見下ろした。
(馬鹿ね。公爵様がそんな安っぽい言葉を信じるわけないじゃない)
ヴォルフガングは優雅に紅茶を啜り、カップをソーサーに置いた。
カチャリ、と小さな音が響いた直後。
「――誰が、俺の妻を愚弄していいと言った?」
応接室の空気が、文字通り凍りついた。
ヴォルフガングから放たれる圧倒的な殺気。歴戦の将軍が放つ本気の『圧』に、バルガスとゲイリーは悲鳴を上げて床にへたり込んだ。
「ひっ!? か、閣下! 私はただ真実を……っ!」
「真実だと? 貴様らがカメリアの印璽を偽造し、領の金を横領した証拠なら、すでに俺の部下がすべて押さえている」
ヴォルフガングが指を鳴らすと、護衛の騎士たちが分厚い書類の束を投げ捨てた。
「な、なんだこれは……!? なぜ、隠蔽したはずの裏帳簿が……っ!」
「カメリアが反逆を企てただと? 笑わせるな。彼女は幼い弟を守るため、貴様らのようなハイエナを遠ざけるために、あえて悪名を被っていただけだ。その気高く美しい覚悟を、貴様らのような下劣な豚どもが語るな」
ヴォルフガングの言葉に、私は目を見開いた。
(どうして……私が弟を守るために悪女を演じていたことまで、知っているの……?)
バルガスは顔を青ざめさせ、ゲイリーは震えながら喚いた。
「ち、違う! 俺は悪くない! 全部バルガスが仕組んだことで……!」
「黙れゲイリー!貴様だってカメリアの財産目当てで加担しただろうが!」
見苦しく互いの罪を擦り付け合う二人を見て、私はふっと冷たい笑みを浮かべた。
「あら、随分と仲が良いのね。私を排除する時はあんなに息がぴったりだったのに」
「カ、カメリア! 許してくれ! 私はお前の叔父だぞ!」
「元婚約者の俺を見殺しにする気か!? お前を愛していたんだ!」
縋り付こうとする二人の手を、ヴォルフガングの軍靴が容赦なく踏み砕いた。
「ぎゃあああああっ!」
「気安く俺の妻の名を呼ぶな、虫ケラ。貴様らの罪状ならすでに国王陛下に提出済みだ。一生、陽の当たらない地下牢で泥を啜って生きるがいい」
騎士たちに引きずられていく二人を見送った後、私はヴォルフガングを見上げた。
「……見事な手際ね。公爵様」
「妻の敵を排除するのは、夫として当然の義務だろう」
彼は手袋を外し、私の頬を優しく撫でた。
「……少し、怯えさせてしまったか?」
「いいえ。とても……頼もしかったわ。ありがとう、ヴォルフガング」
私が初めて彼の名前を呼ぶと、狂犬と呼ばれた男の顔が、一瞬だけ真っ赤に染まったのを私は見逃さなかった。
そして、一年後。
領地の問題も完全に解決し、弟も立派な領主として独り立ちできるようになった。どうやら家ぐるみで弟の支援もしてくれていたらしい。
契約の期限が来た日、私は執務室でヴォルフガングに一枚の書類を差し出した。
「お約束通り、離縁状よ。一年間、本当にお世話になりました。あなたの妻を演じられたこと、誇りに思うわ」
これで私は自由の身。
少し胸の奥がチクリと痛むけれど、所詮は契約上の関係だ。
しかし、ヴォルフガングは書類を一瞥すると、何の躊躇いもなくそれをビリビリに破り捨てた。
「…え?」
「誰が逃がすと言った? お前は一生、俺の檻の中から出さない」
彼は立ち上がり、逃げようとした私の腕を掴んで壁に押し付けた。
「なっ、契約違反よ! 最初から一年の約束だったじゃない!」
「契約など最初からどうでもよかった。俺はただ、君を手に入れるための正当な口実が欲しかっただけだ」
「どういう……こと?」
ヴォルフガングは至近距離から私を見下ろし、燃えるような瞳で告げた。
「数年前、君がスラムの孤児たちに内緒でパンを配り、優しく微笑んでいる姿を見た時から……俺はずっと君に狂っていた。だが、君は隙を見せず、常に完璧な悪女を演じていた。だから俺は、君が絶体絶命の危機に陥るその瞬間まで……君を俺だけのものにする機会をずっと待っていたんだ」
その重すぎる告白に、私の頭は真っ白になった。
「それじゃあ、私が処刑されそうになった時、あなたが現れたのは……」
「偶然なわけがないだろう。君の親族の動向はすべて把握していた。ギリギリまで泳がせ、君が誰にも頼れず、俺の手に落ちるしかない状況を作り出した。……俺を最低の男だと蔑んでも構わない」
ヴォルフガングは私の首筋に顔を埋め、懇願するように、けれど絶対に逃がさないという強い力で抱きしめた。
「愛している、カメリア。もう二度と、君を俺の腕の中から逃がさない。君のすべては俺のものだ」
その恐ろしいほどの執着心。普通なら怯えて逃げ出すところだろう。
けれど……どうしてだろう。胸の奥が熱くなり、どうしようもなく愛おしさが込み上げてくる。
「……呆れた。狂犬なんて呼ばれてるくせに、随分と周りくどくて臆病なのね」
「カメリア……?」
私は彼を押し返す代わりに、その広い背中にそっと腕を回した。
「私を一生閉じ込めるつもりなら、覚悟しなさいよね。私はワガママで強欲な悪女なんだから。あなたの愛も財産も、全部搾り取ってあげるわ」
私の強がりに、ヴォルフガングは一瞬だけ驚いたように目を見開き――やがて、喉の奥で嬉しそうに笑った。
「ああ。俺のすべてを君に捧げよう。俺の可愛い悪女」
彼の手が私の顎を持ち上げ、逃げ場のない甘いキスが降ってくる。
「んっ……ちょっ、ヴォルフガング……!」
息継ぎの暇も与えられないほどの熱烈なくちづけに、私の頭はくらくらと熱を持った。
抵抗しようと彼の胸を叩く手は、あっけなく大きな手で絡め取られ、十指を深く組み合わされる。
「カメリア、カメリア……。ずっとこうして、君を俺のものにしたかった」
唇が離れたかと思えば、今度は頬、耳たぶ、そして首筋へと熱いキスが幾度も落とされる。
甘く痺れるような快感と、彼から伝わってくる重すぎるほどの愛情に、私はもう強がりの仮面を保つことすらできなくなっていた。
「わ、わかったから……っ! もう一生逃げないって言ってるでしょ、このバカ犬……っ!」
顔を真っ赤にして抗議すると、ヴォルフガングは心底幸せそうに目を細めた。
「俺は君の犬で構わない。だから君も、一生俺の腕の中で愛されてくれ」
再び重ねられた唇は、どこまでも優しく、そして底なしに甘かった。
処刑台から始まった偽りの結婚は、どうやら一生解けない愛の鎖へと変わってしまったようだ。
でもまあ、悪くない。
私を狂おしいほど愛してくれるこの狂犬の手綱は、私が一生握ってやるのだから。
【完】




