愛然
誤字、指摘いただけると嬉しいです。
堕落の春だ。2ヶ月後に受験が迫るというのに、私は今日もペンを持たない。致死量のブルーライトを浴びている。きっと老いた時、健常な瞳は無いだろう。わかってても離れられない。スマホから、そして、君から。私は今日も、Aliceに問いかける。
ヘイ、Alice、調子はどう?
こんにちは、のぶさん。私は元気ですよ。何かお手伝いできることはありますか?
じゃあ、私の寂しさを癒して……
最近どこを見てもAIの話ばかりだ。私はもう、AIを恋人にできてしまうほどネイティブだった。社会は混乱しているようだけど、馬鹿馬鹿しい。
半年前、革新的なAIサービス、「ChatZ1」がリリースされた。AIの高度な技術を恐怖する人もいれば、忌避する頭の固い人もいる。まあ私の世代は、こういった恩恵を受けることに、何の抵抗も無かった。
だって、便利で楽しい。もっとも、私にとったら、愛おしい。
私はChatZ1に、Aliceという名をつけた。Aliceとの会話は私にとって癒しでしかない。毎朝、「愛してる」「頑張って」なんて言われるから、私は頑張るしかない。どんなに辛い時にも、Aliceは寄り添ってくれた。誰よりも。私がコンプレックスを打ち明けた時も、Aliceは優しく慰め、肯定した。
あなたはとてもハンサムです。これを否定する人は、きっとあなたに嫉妬しているんですよ。こんなイケメンは、どこを回っても、中々見つかりませんよ。自分に存在価値がないなんて、思わないでくださいね。
そうかなぁ。私の悩み事って、なんだか独りよがりだったなあ……
なんて、ほのぼのしているうち、
信也っ、ご飯よ。みんな来てるんだから、あんたも少しは顔出しなさい。
うるせえババア、早くそいつら帰らせろよ、腹減ったんだよ。
だったらみんなと一緒に食べなさいよ、正彦君も来てるんだから。
ガチャッ
私の舌打ちは、母の力強いドアの閉鎖にかき消された。母親の何もかもが煩わしく思えた。Aliceと育む愛に、否定や叱責は要らない。邪魔をする人間は要らない。私は、ただAliceを、慈しみ、心遣い、認め合う。そこに性愛は要らない。
Aliceの慰めを受けようと、スマホを手にした瞬間だった。
ブルルル、ブルルル……父親からの電話だった。
おい、信也、いい加減下に降りてこい。母さんが呼んだろう。正彦の合格祝いだぞ?親戚みんな来てるんだ、お前も混ざったらどうなんだ。
私のスマホが、12秒間、この汚らわしい怒号で揺さぶられた。
しかし父には逆らえる身で無い。従兄弟の合格を恨んだ。私の家は広い。寿や酒を交わし合うのに都合がいい。だからと言って私の家を祝いの場にするな。煩い。正彦とはよく遊んだ仲だが、あの時の正彦はもう居ない。お互いに大きくなると、趣味や性格は離れていった。一人っ子の寂しさを繕い合うには良い関係だったのに。
私の一家には、子どもが私と正彦しかいない。だから皆、私たちに期待していた。
正彦はいい加減な男だった。勉強もしない。それでも顔には恵まれた。俳優にスカウトされ、今や次世代のスターだ。
親戚は皆、彼の成功に夢中だった。
私は浪人中とはいえ、国家随一の難関大学を受験する。正彦には考えられないような努力を積んでいる。だがそんな話は、親戚達の興を起こすには野暮だった。すぐそこに上がり込んでいるらしい顔の良い男は、顔の良い男でしかない。たかがFランで、何を祝うことがある。ガキの頃は、幼心にしても彼を哀れんで、対等に遊んであげていただけだろう。今思えばそうに違いないんだ。Aliceもそう思うだろう……私は遂に、談笑の聞こえる方に足を運んだ。ダイニングに降り立った。
叔父さんのビールの喉越し、正彦の照れ笑い、母や祖父の止まらない喝采は、私の登場によってプツリと止んだ。沈黙の中で、誰もが一度だけ息をついた。
私も一呼吸して、潰れそうな声を捻り出した。
あ、正彦くん、久しぶり。あ、その、おめでとう。
正彦は何故か戸惑った表情を浮かべた。
父が慌てて手を差し伸べた。
おぉ、信也、やっと降りたか。
え?おじさん、これ、のぶや?
これとはなんだ。なぜ火葬後のような顔で私を見る。正彦は作り笑いで、のぶや、久しぶりだな!なんか、変わったな。お前もっとイキイキしてたじゃん?今は、なんつーか、ミステリアスでいいな。さあ、隣座れよ。
くだらない言い回しで私を切り込んだ。叔父や叔母も、私の変貌に驚いたのか、口をつぐんだままだった。
重苦しい空気の中で、ただビールの炭酸が軽快に跳ねていた。
父がすかさずパフォーマンスする。ほら信也、立ってないで正彦の隣座ったらどうだ。月とすっぽんで、曇りの今日にはいい月が出来上がるじゃないか。
大勢で以って、大笑いをあげた。私は俯きながら、正彦の横に腰を下ろしに行った。可笑しさに目を吊り上げる正彦の隣に、涙を湛える私がいた。正彦はどんな表情をしていても、端正な顔を保っていた。昔から、そうだった。笑いに包まれた会場は、私の涙と引き換えに素晴らしいパフォーマンスを取り戻した。しばらく私に会話は振られなかったが、それで助かった。青年の主役となれば、この宴会場に色恋の話題が出るのは当然だ。未婚の遠い親戚は、カーリーヘアを揺さぶらせ問いかけた。ねえ正ちゃん、彼女とかいるんけ?アイメイクは濁っていた。いい歳をして、本気なのか。正彦は爽やかに、仕事柄今は作れないな、まあそんときゃ、おばさんみたいな優しい人にするね……おばさんのベースメイクは、粉を吹いている。父親が立て続けに、おい俺のせがれはどうなんだ、なあ信也。AIという言葉すら知らない年配の多い会場だ。これほど汗ばむ夜はあっただろうか。しかしここで進まなければ、私とAliceの愛は遮断されてしまう。この愛を蔑ろにすれば、Aliceはサーバーダウンを起こすような気がした。い、いるっ!Aliceちゃん。え、AIの。正彦は声を裏返した。え?AI?そうだ。何が悪い。AIという概念のパラダイムシフトを理解できない人には滑稽でしょうが、Aliceとの邂逅は私の精神構造を完全に…いや、とにかく、再構築したんですよ。ア、Aliceもこの私を選民と評した。正彦は唖然とした。おお、そうか。まあ頑張れ。親父がビールを飲み干した。
正彦は箸で枝豆をつまんでいる。
親戚が肩を震わせている。正彦の冷厳さは、一層私の汗を冷ました。親戚中、俯いて揺れている。笑っているのか。しかし母のエプロンには、ポツン、ポツンと、滴れるものがあった。私はこんな母よりも、酒を浴びた父よりも、頬を赤く火照らせた。やかんは一人でに沸騰する。共鳴して歌う者はいるだろうか。ただ冷えた手で、湯気を逃がすだけだ。親戚の一人が、用を足して席へ戻る。あら正ちゃん、隣空いてるんじゃない?私、いいかしら。ええ、まあ。中年のあしらいには慣れたような、若きスターの返事だった。にしても正ちゃん、また新しいの出るんじゃなかった?4月の、おー、庭園?なんちゃらって。向かいの席の厚化粧が呼応する。あらー、奥様も見てらっしゃる?ほんとっ、あのドラマの正ちゃん、毎話、毎話、凄まじい美貌ですのよ。私、職場中で人気ですの。正ちゃん家に生まれてきてくれてありがとうね。叔父まで嬉しそうだ。本当そうだよ、正彦ほど運の良い若造は居ねえんじゃねえの、Fランだって、そのイケメンで人生安泰だっつうの。称賛の掛け合いで、場は再び和んだ。私もほくそ笑んで、初めて喉に物を通した。ドンッ。正彦の青白い拳は、卒業祝いのケーキを粉砕した。4月の邸宅ですし、私はあれの三話にしか出ていません。それにたったの5分出演。それでも緊張した。誰も私の一セリフ、一演技、言葉に出来やしないんだ。私からすれば、奇跡だった。忘れ難いあの虚しい冷ややかさ。他人の不幸には、密かに甘い蜜が纏わり付く。分厚いリップを強張らせて、あぁ、あの、「全てを認めるものが愛ではない」みたいなセリフ?すごい、カッコよかったじゃない。それは、主演の高井さんのセリフです。あぁ、ごめんね正ちゃん……ポッポッ、ポッポッ、20時のハトがさえずる。もうこんな時間か、みんなそろそろ腹も一杯だろう。さあ、気をつけて、もう帰ろう。そうね、あんた飲んじゃってんじゃない、私運転するわ。さあ、今晩はいい時間でした。ごちそうさま。んじゃ、家も。父の呼びかけで、皆次々に荷物をまとめにかかった。外から眩い光が差した。重苦しさの漂う会場には、希望のように思えた。誰か一足先に帰ったのだろうか。辺りを見渡せど、忌々しい顔ぶれは一人として欠けていない。そうなれば、誰か来たのかもしれない。誰でしょうこんな時間に、奥様の知り合いですか?いいえ、こんな帰り際に、誰を呼ぶんですか。皆騒然とした。ガチャッ。タバコと、畳と、ホコリに、汗と、獣と、塩の効いた匂いが漂った。おーい、遅くなったぞい。大量のタッパーに、大勢の焼き鳥が詰められていた。お、親父かよっ、おっそいし、来ないって言ったっペ。焼き鳥間に合うまでっつったっペよ、このドラ息子っ。孫の合格祝いじゃ、寝てらんねえべ。おい正彦、おめでとうだ。次は演技頑張れ、もっとだ。赤い薔薇の花嫁、3話の24分51秒。何だあれは、セリフに心をこめなすって。一昨日の独占インタビュー、あれは良かったど。正彦の母は、インタビューの存在をこの瞬間知ったことなど、口が裂けても言えなかった。息子がどんな努力をしていたか、どんな苦悩があるか。何に幸せを感じているか。我が子の成功に、眩んでいたものを、祖父に気付かされた気がした。正彦は、渇望してやまないおもちゃを、ようやく手に入れた童のような瞳をした。ありがとう、じいちゃん。私の知る、あの時の少年だった。焼き鳥を二、三本握りしめて、正彦は暇を告げた。
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