第9話「迎えに来た、と彼は言った」
男は、昼前に村に現れた。
黒い外套。腰に細身の剣。背筋の伸びた歩き方。
一目で「軍人」だと分かる男だった。
そして、その肩に縫い付けられた紋章を見て、私は息を止めた。
——王太子直属、第三親衛隊。
ディートヘルム殿下の、最も信頼する側近の部隊だった。
男は、村の中央、井戸の前で立ち止まった。そして、よく通る声で言った。
「エルナ・フォン・リヒテンベルクは、ここにいるか」
ヨナスが、私を背後に押しやった。
その手は、固かった。
村の住人たちが、家から出てきていた。マルタ婆さんが薬草鎌を手に。老猟師が、狩猟用の弓を背負って。元鍛冶屋のおじいさんが、杖代わりの鉄の棒を握って。
みな、無言だった。
けれど、その無言の中に、明確な意思があった。
——この村の人間に、手を出すな。
私は、ヨナスの背中の後ろから、一歩、前に出た。
「私です」
男は、私を見た。
そして、片膝をついた。
廃村の泥の上に、その立派な軍人が、騎士の礼の姿勢を取った。
「お久しぶりにございます、エルナ様」
「……あなたは」
「殿下の親衛隊長、ヴァルター・ホルツェンドルフでございます。覚えておいでにならぬのも無理はございません」
私は、覚えていなかった。けれど名前は聞いたことがあった。古い貴族の家柄の、武門の出身。
「ヴァルター卿。この村に、何用でしょうか」
「迎えに参りました」
彼の言葉に、村の人々がざわめいた。
「殿下の命にございます。エルナ様を、王都へお連れせよ、と」
私は、声を出さなかった。
出さなかったというより、出せなかった。
「殿下は、この数か月で全てを悟られました。王国の魔導灯が弱まり、井戸の魔力水脈が涸れ、貴族の屋敷の魔法陣が次々と機能を失っております。原因の調査の結果——」
ヴァルターは、地面を見たまま、続けた。
「エルナ様の『魔力ゼロ』は、測定の誤りではないと判明したのです。むしろ逆。エルナ様の身体は、周囲の魔力を吸収し、無に還す体質である、と。それゆえ、エルナ様が王都におられた間、王国の魔力消費は安定していた。エルナ様が辺境に去られた今、その均衡が崩れ、——」
「お待ちなさい」
私は、初めて声を上げた。
「それは、私が王都に戻れば、王国は救われるという意味ですか」
「はい。陛下と殿下は、エルナ様に王国を救う鍵としての地位をお与えになるご所存です。婚約の復活、公爵家の復籍、聖女としての称号——」
私は、笑いそうになった。
笑ったら泣きそうだったから、堪えた。
「ヴァルター卿」
「はい」
「殿下は、私を『家畜』と呼ばれました」
「……それは」
「『魔力なき者を娶るは家畜と寝るに等しい』と、大広間で、公衆の面前で、おっしゃいました」
「殿下は、それを、深くお詫びしておられます」
「お詫び、ですか」
私は、自分の声が、自分でも驚くほど冷たく響いているのが分かった。
「では、私が魔力を吸う体質だと判明したから、お詫びをくださると」
「……」
「もし私が、ただの魔力ゼロのままであったなら、お詫びはなかったわけですね」
「エルナ様」
「答えてください」
ヴァルターは、答えなかった。
答えられなかった。
私の背後で、ヨナスが、小さく息を吐いた。
怒りでも、安堵でもない、ただ、ある一線を越えた者の、深い息だった。
「ヴァルター卿。お引き取りください」
私は言った。
「私は、王都には戻りません」
「エルナ様、これは王命でございます」
「魔力なき家畜風情に、王命は理解できません」
——これは、私が初めて、自分の意思で人を傷つけた言葉だった。
ヴァルターの表情が、ほんの一瞬だけ、歪んだ。
けれど、すぐに元に戻った。彼は親衛隊長だった。プロの軍人だった。
「……殿下のお言葉を、お返ししないでいただきたい」
「では殿下に、お返しください。家畜は、自分で帰る道を見つけたと」
ヴァルターは、ゆっくりと立ち上がった。
そして、ヨナスに目を向けた。
「貴公が、エルナ様を保護しておられる方か」
「俺は、村の山羊飼いだ」
「貴公は、王命の意味が分かっているか」
「分からん」
「分からない、と」
「俺は元・王国軍の斥候だが、六年前に部隊を全滅させて、ここに流れ着いた。それ以来、王国の文字も読めなくなった。王命だの何だの、知らん」
ヨナスの灰色の目が、ヴァルターを見据えていた。
「ただ、一つだけ言える。ここの人間に手を出したきゃ、まず俺と、この村の老人と子どもを、全員殺せ。話はそれからだ」
ヴァルターは、しばらくヨナスを見ていた。
それから、もう一度、私に向き直った。
「エルナ様。お考え直しを、お願い申し上げます。次に参る時は、私一人ではなく、兵を連れてまいります」
「……」
「これは脅しではございません。ご決断の猶予でございます」
そう言って、彼は背を向けた。
黒い外套が、雪の村の道を遠ざかっていった。
村の入口で振り返り、もう一度だけ深く礼をして、彼は去った。
◇
その夜。
私は、暖炉の前で、自分の手を見つめていた。
震えていた。昼間は気付かなかったけれど、震えていた。
ヨナスが、私の前に、何も言わずに座った。
そして、私の両手を、自分の両手で包んだ。
大きな手だった。
木と土と、薪の煙の匂いがした。
温かかった。
「……ヨナスさん」
「ああ」
「私は、王都には、戻りません」
「ああ」
「あなたと、ここに、いたいのです」
「……ああ」
ヨナスは、それしか言わなかった。
けれど、私の手を包む彼の手の力が、ほんの少しだけ、強くなった。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
外では、雪が、また降り始めていた。




