第8話「冬支度」
雪が降る一週間前、村は戦場のようになった。
比喩ではなかった。本当に、戦場のような忙しさだった。
マルタ婆さんは、保存食を仕込むために朝から晩まで台所に立っていた。塩漬け、酢漬け、燻製、乾燥——冬を越すための知恵を、私はメモも取らずに身体で覚えた。書く暇がなかったのだ。
老猟師の夫婦は、罠を仕掛けに森へ通っていた。冬の獲物は脂が乗っていて、保存も効くのだという。
元鍛冶屋のおじいさんは、足が悪いなりに、村中の道具の修繕をして回っていた。冬の間に壊れて困るものを、今のうちに直しておくのだと。
ヤンは、子ども特有の元気さで、走り回って薪を運んでいた。
そして私とヨナスは、山羊小屋の補強をしていた。
◇
屋根の板が、一枚、ずれていた。
雪が積もれば、その隙間から雪解け水が入り、冬の山羊小屋を冷やしてしまう。それは山羊たちの命に関わる。グレタは丈夫だが、もふはまだ若い。
私は、ヨナスから木槌を渡されて、屋根の上に登っていた。
高さは大したことはなかった。けれど雨が降っていた。屋根板が滑った。
「降りろ」
下からヨナスの声がした。
「もう少しで終わります」
「滑るぞ」
「大丈夫です」
「……令嬢」
「エルナです」
「エルナ。降りろ。濡れて死なれると、埋めるのが面倒だ」
——私は、笑ってしまった。
屋根の上で、雨に打たれながら、声を出して笑った。
笑った後で、自分が今、笑っていることに気付いて、口元に指を当てた。
ヨナスが、下から私を見上げていた。
雨に濡れた、無愛想な男の顔。けれど、その目だけが、何か眩しいものを見るように、細められていた。
私は屋根から降りた。
ヨナスが、両手を差し出した。
私は、その両手の上に、自分の体を預けた。
ヨナスは、私を抱え下ろした。それは一瞬の動作だった。けれど、私の腰に回された彼の腕の重さを、私は何年も忘れないだろうと思った。
地面に降りると、ヨナスはすぐに手を離した。
そして、ぼそりと言った。
「中で乾かせ」
「ヨナスさんも」
「俺は最後だ」
◇
その夜、雨は雪に変わった。
小屋の中、暖炉の前で、私たちは一日の仕事を終えた者の沈黙を分け合っていた。
マルタ婆さんは早めに自分の家に戻り、ヤンは老猟師の家で寝かせてもらっていた。小屋には、私とヨナスだけだった。
ヨナスが、暖炉の上の鍋から、パンを取り出した。
マルタ婆さんが昼間に焼いてくれた、固い黒パン。
ヨナスは、ナイフでそれを二つに切った。
切り分けた一方を、私の前の皿に置いた。
私は、それを見た。
ヨナスの分の半分よりも、私の分の方が、明らかに大きかった。
私は、何も言わなかった。
ヨナスも、何も言わなかった。
私は、自分の前のパンを手に取り、半分にちぎって、ヨナスの皿に置いた。
ヨナスは、私のしたことを見て、しばらく沈黙し、それから、ぽつりと言った。
「……俺の方が、体が大きいのに」
「ヨナスさんの方が、薪割りで疲れているからです」
「あんたは屋根に登った」
「ヨナスさんは斧を振りました」
「……」
ヨナスは、もう何も言わずに、パンを口に運んだ。
私も、自分のパンを食べた。
黒パンは、噛むほどに、麦の甘みが広がった。
◇
食事の後、私はヨナスのシャツの繕いをしていた。
昼間、屋根の作業で、彼の袖口が解れていたのに気付いていた。針と糸を借りて、暖炉の前で、ゆっくりと繕った。
彼の繕い方は、ひどく不器用だった。針目が荒く、糸の引きが強すぎて布が歪んでいた。男の独り暮らしの繕い物だった。
私は、その荒い針目を一度ほどいて、丁寧に縫い直した。
ヨナスは、私の手元を、じっと見ていた。
「……あんたは」
「はい?」
「公爵令嬢だったんだろう。なぜ、こんなことが、できる」
「フランス刺繍の応用です。淑女教育の最後に習いました」
「淑女教育で、男のシャツを縫うのか」
「いいえ。淑女は、自分のハンカチに花を刺繍するのです」
「……それを、男のシャツに使うのは」
「私が、勝手にしていることです」
ヨナスは、しばらく黙っていた。
それから、本当に小さな声で、こう言った。
「……ありがとう」
私の手が、針を持ったまま、止まった。
ヨナスがこの言葉を口にしたのを、私は初めて聞いた。
たぶん、彼自身、何年ぶりかで口にしたのだろうと思った。
私は、針を再び動かした。
涙がこぼれそうになるのを、必死で堪えながら。
針目を、一つも乱さないように、ゆっくりと、ゆっくりと。
◇
翌朝、雪はやんでいた。
けれど、村の雪は、別のものを連れてきていた。
村の入口の雪の上に、見知らぬ足跡があった。
大人の男の、よく磨かれた革靴の跡だった。
——廃村に、革靴を履いてくる人間など、いるはずがなかった。
ヨナスは、足跡をしばらく見つめてから、小さく舌打ちをした。
「エルナ」
「はい」
「今日は、小屋から出るな」




