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魔力のない令嬢は、辺境で静かに国を見殺しにする  作者: 九葉(くずは)


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8/12

第8話「冬支度」

雪が降る一週間前、村は戦場のようになった。


比喩ではなかった。本当に、戦場のような忙しさだった。


マルタ婆さんは、保存食を仕込むために朝から晩まで台所に立っていた。塩漬け、酢漬け、燻製、乾燥——冬を越すための知恵を、私はメモも取らずに身体で覚えた。書く暇がなかったのだ。

老猟師の夫婦は、罠を仕掛けに森へ通っていた。冬の獲物は脂が乗っていて、保存も効くのだという。

元鍛冶屋のおじいさんは、足が悪いなりに、村中の道具の修繕をして回っていた。冬の間に壊れて困るものを、今のうちに直しておくのだと。

ヤンは、子ども特有の元気さで、走り回って薪を運んでいた。


そして私とヨナスは、山羊小屋の補強をしていた。



屋根の板が、一枚、ずれていた。


雪が積もれば、その隙間から雪解け水が入り、冬の山羊小屋を冷やしてしまう。それは山羊たちの命に関わる。グレタは丈夫だが、もふはまだ若い。


私は、ヨナスから木槌を渡されて、屋根の上に登っていた。

高さは大したことはなかった。けれど雨が降っていた。屋根板が滑った。


「降りろ」


下からヨナスの声がした。


「もう少しで終わります」

「滑るぞ」

「大丈夫です」

「……令嬢」

「エルナです」

「エルナ。降りろ。濡れて死なれると、埋めるのが面倒だ」


——私は、笑ってしまった。


屋根の上で、雨に打たれながら、声を出して笑った。

笑った後で、自分が今、笑っていることに気付いて、口元に指を当てた。

ヨナスが、下から私を見上げていた。

雨に濡れた、無愛想な男の顔。けれど、その目だけが、何か眩しいものを見るように、細められていた。


私は屋根から降りた。

ヨナスが、両手を差し出した。

私は、その両手の上に、自分の体を預けた。

ヨナスは、私を抱え下ろした。それは一瞬の動作だった。けれど、私の腰に回された彼の腕の重さを、私は何年も忘れないだろうと思った。


地面に降りると、ヨナスはすぐに手を離した。

そして、ぼそりと言った。


「中で乾かせ」

「ヨナスさんも」

「俺は最後だ」



その夜、雨は雪に変わった。


小屋の中、暖炉の前で、私たちは一日の仕事を終えた者の沈黙を分け合っていた。

マルタ婆さんは早めに自分の家に戻り、ヤンは老猟師の家で寝かせてもらっていた。小屋には、私とヨナスだけだった。


ヨナスが、暖炉の上の鍋から、パンを取り出した。

マルタ婆さんが昼間に焼いてくれた、固い黒パン。

ヨナスは、ナイフでそれを二つに切った。

切り分けた一方を、私の前の皿に置いた。

私は、それを見た。

ヨナスの分の半分よりも、私の分の方が、明らかに大きかった。


私は、何も言わなかった。

ヨナスも、何も言わなかった。


私は、自分の前のパンを手に取り、半分にちぎって、ヨナスの皿に置いた。

ヨナスは、私のしたことを見て、しばらく沈黙し、それから、ぽつりと言った。


「……俺の方が、体が大きいのに」

「ヨナスさんの方が、薪割りで疲れているからです」

「あんたは屋根に登った」

「ヨナスさんは斧を振りました」

「……」


ヨナスは、もう何も言わずに、パンを口に運んだ。

私も、自分のパンを食べた。

黒パンは、噛むほどに、麦の甘みが広がった。



食事の後、私はヨナスのシャツの繕いをしていた。


昼間、屋根の作業で、彼の袖口が解れていたのに気付いていた。針と糸を借りて、暖炉の前で、ゆっくりと繕った。

彼の繕い方は、ひどく不器用だった。針目が荒く、糸の引きが強すぎて布が歪んでいた。男の独り暮らしの繕い物だった。

私は、その荒い針目を一度ほどいて、丁寧に縫い直した。


ヨナスは、私の手元を、じっと見ていた。


「……あんたは」

「はい?」

「公爵令嬢だったんだろう。なぜ、こんなことが、できる」

「フランス刺繍の応用です。淑女教育の最後に習いました」

「淑女教育で、男のシャツを縫うのか」

「いいえ。淑女は、自分のハンカチに花を刺繍するのです」

「……それを、男のシャツに使うのは」

「私が、勝手にしていることです」


ヨナスは、しばらく黙っていた。

それから、本当に小さな声で、こう言った。


「……ありがとう」


私の手が、針を持ったまま、止まった。

ヨナスがこの言葉を口にしたのを、私は初めて聞いた。

たぶん、彼自身、何年ぶりかで口にしたのだろうと思った。


私は、針を再び動かした。

涙がこぼれそうになるのを、必死で堪えながら。

針目を、一つも乱さないように、ゆっくりと、ゆっくりと。



翌朝、雪はやんでいた。

けれど、村の雪は、別のものを連れてきていた。


村の入口の雪の上に、見知らぬ足跡があった。

大人の男の、よく磨かれた革靴の跡だった。

——廃村に、革靴を履いてくる人間など、いるはずがなかった。


ヨナスは、足跡をしばらく見つめてから、小さく舌打ちをした。


「エルナ」

「はい」

「今日は、小屋から出るな」

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