第6話「あなたの名前を、呼んでもいいですか」
それは、雪が降る前の最後の晴れた日だった。
ヨナスが薪割りをしていた。私は畑で冬越しの根菜を掘り起こしていた。その時、乾いた音がして、続けて、低い舌打ちが聞こえた。
「ヨナスさん?」
振り向くと、ヨナスが左手を押さえていた。指の間から、赤いものが滴っている。
私は、地面に膝をついた姿勢のまま、一瞬で立ち上がっていた。
「見せてください」
「……かすり傷だ」
「見せてください」
自分でも驚くほど強い声が出た。
ヨナスは、少し驚いた顔で、けれど素直に左手を差し出した。
親指の付け根、斜めに深い裂傷。かすり傷ではなかった。骨は見えていないけれど、放置すれば確実に化膿する深さだった。
「——小屋へ」
「エルナ」
「小屋へ、お願いします」
私は、ヨナスの右手を掴んで引いた。十九歳の娘の力で、二十七歳の男を引くなんて無理だったけれど、ヨナスは逆らわずに従った。
◇
マルタ婆さんに教わったばかりだった。
青い膏薬の作り方。傷口の洗い方。包帯の巻き方。あの夜、私の肩にしてくれたことを、マルタ婆さんは手順通りに私に教えてくれていた。
「薬草ってのは、人に渡すために覚えるもんだ。自分のためだけじゃ、身につかないよ」
あの時の言葉の意味が、今分かった。
私は井戸から水を汲み、沸かし、冷まし、清潔な布で傷を洗った。ヨナスは椅子に座って、無言で私のすることを見ていた。
膏薬を塗る。ヨナスの大きな手の、関節の節くれだった指。傷口の周りの皮膚が、私の指先で小さく震えた。
包帯を巻く。最初の一周。二周目。三周目で、私は一度、手を止めた。
「……ヨナスさん」
私は、顔を上げずに言った。
「はい?」
「あなたの名前を、呼んでもいいですか」
ヨナスの手が、びくりと動いた。
私は、自分でも何を言っているのか分からなかった。
彼の名前は知っている。彼は「ヨナスさん」と呼ばれるのを許している。私はもう何度も彼をそう呼んでいる。
けれど——「呼んでいいか」と訊きたかった。
「……呼んでないのか、今」
「はい」
「……」
「今までは、私が勝手に口にしていただけです。これからは、あなたの許しをもらって呼びたいのです」
沈黙が落ちた。
包帯の最後を結ぶ音だけが、小さく響いた。
ヨナスは、しばらく自分の包帯を見ていた。それから、ぽつりと、ほとんど独り言のように言った。
「……六年、誰にも呼ばれてない」
「……?」
「俺の名前だ。六年前、部隊が全滅した。あの日から、俺の名前を呼ぶ奴は、いなくなった」
ヨナスは、自分の手のひらを開いたり閉じたりしていた。何かを確かめるように。
「マルタ婆さんも、ヤンも、俺を『ヨナスさん』とは呼ぶ。でもあれは、村の中の役割の呼び名だ。『村のヨナスさん』で、俺個人の名前じゃない」
「……」
「あんたに呼ばれるまで、気付かなかった。俺は、自分の名前を、忘れかけていた」
私は、包帯の結び目を、両手で包んだ。
「ヨナス、さん」
試すように、呼んだ。
「……ああ」
「ヨナス、さん」
もう一度。
「……聞いてる」
「ヨナスさん」
三度目。
ヨナスの目が、ほんの少しだけ、揺れた。
そして彼は、しばらく何も言わなかった。
私も、何も言わなかった。
◇
その夜、私は小屋の片隅の寝床で、初めて声を殺さずに泣いた。
何が悲しかったのか、自分でも分からなかった。悲しかったのかどうかすら、分からなかった。ただ、胸の奥で長い間固まっていた何かが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
王都で、私は泣かなかった。
婚約破棄の夜も、檻の中の五日間も、谷に落ちた時も。
涙は、弱い者が流すものだと教えられてきた。公爵令嬢は、決して泣いてはならないと。
でも今夜、私は、泣いていい場所にいた。
外で、足音がした。
ヨナスが、小屋の壁の外側を、ゆっくりと歩いていた。行ったり来たりしていた。
それから、彼は小屋の戸のすぐ外で、立ち止まった。
しばらく、何の音もしなかった。
それから、小さな、カチッという音がした。火打ち石の音だった。
ヨナスが、小屋の外で、火を熾しているのだった。
寒い夜だった。雪が降る前の、一番寒い夜。
彼は、私が泣いている間ずっと、小屋の外で火を絶やさず、番をしていた。
私の泣き声を聞かないふりをして。
私を一人にしないために。
私は、寝台の中で、自分の口元を両手で押さえた。
それでも涙は止まらなかった。
けれど今度の涙は、少しだけ、温かかった。




