第4話「魔力のない手で、できること」
朝は、鶏の声より早く来た。
正確には、鶏ではない。グレタだった。あの片角の山羊は、夜明け前になると小屋の柵に角を打ちつけて「飯をよこせ」と要求する性格だったのだ。
寝台の上で私は目を開け、しばらく天井の梁を見ていた。
肩の傷はまだ痛んだけれど、昨日よりは確かに軽い。マルタ婆さんが昨夜、変な匂いのする青い膏薬を塗ってくれた。「薬草ってのはね、王都の魔法薬より素直だよ。効くか効かないか、それだけさ」と笑っていた。
私は、そっと寝台から足を下ろした。
素足の裏に、冷たい木の床。足の指が、きゅ、と縮こまる。
——生まれて初めて、素足で床を歩いている。
そんなことに、今さら気付いた。
◇
「畑に出られるか」
朝の粥を食べ終えた私に、ヨナスが言った。昨日と同じ無表情、昨日と同じ薄い粥。
「……はい。やらせてください」
「傷に障ったら、すぐ戻れ」
ヨナスは、私に一本の木の棒を渡した。先が平たく削られている。
「これは……?」
「種まき用の棒だ。豆の種を蒔く。穴を開けて、種を落として、土を被せる。それだけだ」
それだけ、と彼は言った。
十二年の家庭教師は、私に詩の朗読と三か国語とハープの調律を教えてくれたけれど、豆の蒔き方は一度も教えてくれなかった。
畑は、小屋の裏手にあった。
広いとは言えない。けれど村の畑としてはまともな方だとヨナスは言った。手入れが行き届いている。畝がまっすぐで、石ころが丁寧に除けてある。
(誰がこんなに)
と思って顔を上げると、ヨナスが私の視線に気付いて、ぼそりと言った。
「冬の間、暇だからな」
——嘘だ、と私は思った。
暇で畝はまっすぐにならない。これは、何年もかけて、土を相手に対話してきた人間の畑だった。
私はしゃがみ込み、ヨナスに教えられた通り、棒で土に穴を開けた。
——浅すぎる、と彼は言った。
もう一度やり直す。
——今度は深すぎる、と彼は言った。
三度目にようやく、ヨナスは小さく頷いた。
種を、一粒、落とす。
土を、被せる。
それだけだった。それだけのことを、私は次の穴で、また失敗した。
気付けば、日が高くなっていた。
私の手は土まみれで、爪の間に黒いものが入り込み、手のひらには小さな擦り傷ができていた。淑女教育の仕上げに「白い手を保つ練習」まで受けた私の手が、今は、土の匂いがする。
——それでも。
私は、自分の蒔いた種の位置を、目で数えた。
十七個。
失敗を数えれば六個は無駄にしたけれど、それでも十七個の豆が、この土の中に埋まっている。
私が、自分の手で、埋めた。
(私の手で、できること)
その言葉が、不思議な温度で胸に落ちた。
魔力のない手で、十七個の豆を土に埋めることが、できた。
それは、誰の許可もいらないことだった。王家の承認も、婚約者の機嫌も、継母の扇の動きも、一切関係のない、ただ私と土との間の取引だった。
「昼にする」
ヨナスの声で、私は顔を上げた。
小屋の前の石の上で、マルタ婆さんが薬草茶を淹れていた。銅の小鍋から湯気が立ち、辺り一面に、甘いような、苦いような、青い匂いが広がる。
「ほら、お嬢さん。お座り」
マルタ婆さんが、木の椀に茶を注いで私に差し出した。私は両手で受け取った。
「言っとくけどね、この茶は『効く』茶だよ。眠気覚ましでも、傷を癒すでも、女の月の痛みを和らげるでもない。ただ、飲むと『ああ、生きてんな』と思える茶だ。それだけのもんだ」
私は、一口、口に含んだ。
——青かった。
味、という言葉では足りなかった。それは、春先の雨上がりに森の奥で吸い込む空気に似ていた。舌の上を通り過ぎる時、ほんの少しだけ苦く、そしてすぐに、喉の奥でほどけて温かくなる。
私は、二口目を飲んだ。
三口目を飲んだ。
そして、椀の底に映る自分の顔を、生まれて初めて、きちんと見た。
——ああ、生きている。
その事実が、今朝の豆と同じ重さで、胸に落ちた。
「マルタさん」
「なんだい」
「この茶の、淹れ方を、教えていただけませんか」
マルタ婆さんは、皺だらけの顔をくしゃりとさせて笑った。
「いいともさ。薬草は、土と同じでね。嘘をつかないんだよ」
ヨナスが、畑の向こうで、こちらを一度だけ振り返った。
何も言わずに、また畝に目を戻した。
けれど私には、その一瞬の視線が、言葉よりも多くを語っているように思えた。




