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魔力のない令嬢は、辺境で静かに国を見殺しにする  作者: 九葉(くずは)


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第4話「魔力のない手で、できること」

朝は、鶏の声より早く来た。


正確には、鶏ではない。グレタだった。あの片角の山羊は、夜明け前になると小屋の柵に角を打ちつけて「飯をよこせ」と要求する性格だったのだ。


寝台の上で私は目を開け、しばらく天井の梁を見ていた。

肩の傷はまだ痛んだけれど、昨日よりは確かに軽い。マルタ婆さんが昨夜、変な匂いのする青い膏薬を塗ってくれた。「薬草ってのはね、王都の魔法薬より素直だよ。効くか効かないか、それだけさ」と笑っていた。


私は、そっと寝台から足を下ろした。

素足の裏に、冷たい木の床。足の指が、きゅ、と縮こまる。

——生まれて初めて、素足で床を歩いている。

そんなことに、今さら気付いた。



「畑に出られるか」


朝の粥を食べ終えた私に、ヨナスが言った。昨日と同じ無表情、昨日と同じ薄い粥。


「……はい。やらせてください」

「傷に障ったら、すぐ戻れ」


ヨナスは、私に一本の木の棒を渡した。先が平たく削られている。


「これは……?」

「種まき用の棒だ。豆の種を蒔く。穴を開けて、種を落として、土を被せる。それだけだ」


それだけ、と彼は言った。

十二年の家庭教師は、私に詩の朗読と三か国語とハープの調律を教えてくれたけれど、豆の蒔き方は一度も教えてくれなかった。


畑は、小屋の裏手にあった。


広いとは言えない。けれど村の畑としてはまともな方だとヨナスは言った。手入れが行き届いている。畝がまっすぐで、石ころが丁寧に除けてある。

(誰がこんなに)

と思って顔を上げると、ヨナスが私の視線に気付いて、ぼそりと言った。


「冬の間、暇だからな」


——嘘だ、と私は思った。

暇で畝はまっすぐにならない。これは、何年もかけて、土を相手に対話してきた人間の畑だった。


私はしゃがみ込み、ヨナスに教えられた通り、棒で土に穴を開けた。

——浅すぎる、と彼は言った。

もう一度やり直す。

——今度は深すぎる、と彼は言った。


三度目にようやく、ヨナスは小さく頷いた。

種を、一粒、落とす。

土を、被せる。

それだけだった。それだけのことを、私は次の穴で、また失敗した。


気付けば、日が高くなっていた。

私の手は土まみれで、爪の間に黒いものが入り込み、手のひらには小さな擦り傷ができていた。淑女教育の仕上げに「白い手を保つ練習」まで受けた私の手が、今は、土の匂いがする。


——それでも。


私は、自分の蒔いた種の位置を、目で数えた。

十七個。

失敗を数えれば六個は無駄にしたけれど、それでも十七個の豆が、この土の中に埋まっている。

私が、自分の手で、埋めた。


(私の手で、できること)

その言葉が、不思議な温度で胸に落ちた。

魔力のない手で、十七個の豆を土に埋めることが、できた。

それは、誰の許可もいらないことだった。王家の承認も、婚約者の機嫌も、継母の扇の動きも、一切関係のない、ただ私と土との間の取引だった。


「昼にする」


ヨナスの声で、私は顔を上げた。


小屋の前の石の上で、マルタ婆さんが薬草茶を淹れていた。銅の小鍋から湯気が立ち、辺り一面に、甘いような、苦いような、青い匂いが広がる。


「ほら、お嬢さん。お座り」


マルタ婆さんが、木の椀に茶を注いで私に差し出した。私は両手で受け取った。


「言っとくけどね、この茶は『効く』茶だよ。眠気覚ましでも、傷を癒すでも、女の月の痛みを和らげるでもない。ただ、飲むと『ああ、生きてんな』と思える茶だ。それだけのもんだ」


私は、一口、口に含んだ。


——青かった。

味、という言葉では足りなかった。それは、春先の雨上がりに森の奥で吸い込む空気に似ていた。舌の上を通り過ぎる時、ほんの少しだけ苦く、そしてすぐに、喉の奥でほどけて温かくなる。


私は、二口目を飲んだ。

三口目を飲んだ。

そして、椀の底に映る自分の顔を、生まれて初めて、きちんと見た。


——ああ、生きている。


その事実が、今朝の豆と同じ重さで、胸に落ちた。


「マルタさん」

「なんだい」

「この茶の、淹れ方を、教えていただけませんか」


マルタ婆さんは、皺だらけの顔をくしゃりとさせて笑った。


「いいともさ。薬草は、土と同じでね。嘘をつかないんだよ」


ヨナスが、畑の向こうで、こちらを一度だけ振り返った。

何も言わずに、また畝に目を戻した。

けれど私には、その一瞬の視線が、言葉よりも多くを語っているように思えた。

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