第3話「畑の隅で拾われる」
木の天井だった。
目を開けて最初に見たのは、煤で黒ずんだ梁と、隙間から差し込む細い光だった。
王宮の絹の天蓋でも、公爵邸のフレスコ画でもない。木と、藁と、煙の匂いがする部屋。
私は、生きていた。
体を起こそうとして、肩に走った痛みに息が止まった。包帯が巻かれている。荒い布で、不器用な巻き方だった。けれど、ちゃんと巻かれていた。
ドレスは脱がされていた。代わりに、男物の大きすぎるシャツを着せられている。袖口から覗く自分の腕は、痣だらけだった。
「起きたか」
戸口から、声がした。
男だった。年は三十前後だろうか。背が高く、肩幅が広く、けれど痩せていた。黒に近い焦げ茶の髪は無造作に切られていて、目の色は——灰色だった。曇った日の谷底のような、静かな灰色。
表情がなかった。怒っているのでも、心配しているのでもない。ただ、そこに立っていた。
男は、木の器を持っていた。湯気が立っている。
「飯だ。粥しかない」
そう言って、男はベッドの脇の小さな台に器を置いた。
私は、何か言わなければと思った。礼でも、名乗りでも、許しを請う言葉でも。
けれど口から出たのは、まったく違う言葉だった。
「……どうして、助けたのですか」
男は、少しだけ首を傾げた。
それから、本当に何でもないことのように言った。
「畑の隅に、転がってたからだ。山羊と同じだ」
——山羊と同じ。
私は、自分の喉から、おかしな音が漏れたのが分かった。笑いたかったのか、泣きたかったのか、自分でも分からなかった。
王太子に「家畜」と呼ばれて、私は何も感じなかった。
けれどこの男に「山羊と同じ」と言われた瞬間、私の胸の奥で、何かが小さく崩れた。
(ああ、この扱いは、悪意じゃない)
そう気付いた瞬間に。
「……粥を、いただいても?」
「だから持ってきた」
不器用な手つきで、男は木の匙を私に差し出した。
私は受け取った。指が震えていて、最初の一口を口に運ぶのにずいぶんかかった。
薄い、塩味だけの粥だった。麦の殻が舌に残る。出汁もなければ、香草もない。
——けれど、温かかった。
私は、二口目を食べた。
三口目で、目から勝手に水が落ちた。
私は驚いた。十九年間、人前で泣いたことなど一度もなかったのに。
男は、何も言わなかった。
私が泣いていることに気付いていないふりをして、戸口に背を向けて、外を見ていた。
その背中の優しさに、私はまた一口、粥を飲んだ。
◇
男の名は、ヨナス、と言った。
ここはヴェルデン領の最奥、廃村と呼ばれる小さな集落だった。住人は七人。元産婆のマルタ婆さん、戦災孤児のヤンという少年、老いた猟師の夫婦、足の悪い元鍛冶屋、そしてヨナス。
かつては二百人が暮らした村だったらしい。魔獣の領域と隣接しているせいで、若者から順に逃げ出し、残ったのは「もう逃げる場所のない者」だけ。
「あんたは、運がよかった」
翌朝、粥の二杯目を運んできたヨナスが、ぽつりと言った。
「あの谷に落ちる人間は、たいてい上がってこない。あの日、たまたま俺がグレタを探しに谷へ降りていた」
「グレタ……?」
「うちの山羊だ。片角の折れた、性悪なやつ」
——ああ、と私は思い出す。あの、私を見下ろしていた灰色の。
「あの子のおかげで、私は助かったのですね」
「あいつは、助けたつもりはないだろうがな」
ヨナスが、初めてほんの少しだけ、口の端を動かした。笑った、というには遠かったけれど。
「働けるなら、ここに居ていい」
唐突に、ヨナスは言った。
「畑も、家畜の世話も、人手はいくらでも欲しい。働けないなら……それでも、居ていい。ここは、追い出せるほど人間に余裕のある村じゃない」
私は、息を詰めた。
「ただ、名前くらいは教えろ。山羊と同じ呼び方をするのは、さすがに俺も気が引ける」
私は、寝台の上で、ゆっくりと姿勢を正した。
痛む肩を無視して、両手を膝の上に重ね、十二年の家庭教師に叩き込まれた角度で頭を下げた。
ただし、家名は名乗らなかった。家名は、もう私のものではない。
「エルナと、申します。——よろしくお願いいたします、ヨナスさん」
ヨナスは、私の名を、口の中で一度だけ繰り返した。
「……エルナ」
その響きが、なぜだろう、ひどく丁寧に聞こえた。
王宮の誰一人、こんな呼び方で私の名を呼んだことはなかった。
命令でも、嘲笑でもなく、ただ「そこに在る一人の人間の名前」として、彼はそれを口にした。
戸口から、風が入ってきた。
草の匂いと、土の匂いと、遠くで山羊が一頭、不機嫌そうに鳴く声。
——ここで、生きてみよう。
そう思った瞬間に、私はまた、少しだけ泣いた。
ヨナスは、やはり気付かないふりをして、戸口の外に立っていた。




